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揺らぐベータと揺さぶるアルファ

沢深/バース性に揺らぎのあるβ深とα沢の話。

「一成君はきっとαだよね」

 こんなにバスケットボールが上手なんだもんね。

 鈴を転がすような無邪気な声に、果たして何と返したのだったか。

「無視したピョン」

「あ?」

 朝練習後の着替え中に、唐突に呟いた深津一成の声に反応したのは同学年の河田雅史だったが、深津は軽く流した。制服に着替え終えた同学年の仲間達と共に、部室を後にする。

「沢北の奴、手紙もらってたらしいぞ」

「なに?いつ?」

「昨日。二年が話してた。部活前に校庭で他校の女子から堂々と渡されてたってよ」

「やるなあ、その女子」

 ははは。

 男子高校生の会話などこんなものである。深津は適当に頷きつつ、今日の一限目は数学だったなと思い出す。

「深津もモテてたけどな」

「過去形」

「語尾やめたらまたモテると思う」

「嫌だピョン」

 ようやく言葉をマトモに返し、深津はまたいつかの鈴のような声を思い出していた。

 一成君はきっとαだよね。

「くだらないピョン」

「出たクール深津」

「まあ、今はオレら全員そういう場合じゃないのも確かだけどな。沢北も断るだろIHすぐだし、特にアイツはIH終わったらアメリカだしな」

 河田の言に、みんな「そうだな」となったところで、三年のフロアに着いた。それぞれの教室に向かいながら、深津は思う。

 αだったのなら、何か違ったのだろうか。

 

 

 深津一成は、βである。

 高い身長にバスケの実力に学力、それだけでなく常に冷静で動じない精神力など、様々な面から大体の者は深津をαだと思う。実際、昨年入学してきた期待のルーキーこと沢北栄治も、深津と一緒にプレーをするようになるや、「深津さんってαですか?」と聞いてきた。バース性について不躾に訊ねるのはマナー違反なので、とりあえず強めのデコピンをしておいた。沢北は泣いた。

「まあ、オレをαだと思うのはおかしいことじゃないベシ」

 当時、深津は蹲って泣く沢北にそう言った。別に、自分が優れているとか、そういう話をしたかったのではない。

「沢北お前、βの揺らぎって知ってるベシ?」

 そう問いかけた時の、間抜け面が忘れられない。

 

 

 板書されていく数式を見ながら、深津は頬杖をついた。

 つまり、である。本来は綺麗に三つに区別されるべきバース性は、果たして全くもって綺麗に整理できるものではないのだ。αもΩも、さもβは楽な性別だと思っていそうだが、βにはβなりの面倒臭さがあるし、深津のような体質の場合は特に注意が必要なのだ。

「一成君は、フェロモン値に揺らぎがありますね」

 中学に上がってすぐの定期健診の結果と共に、保護者同伴で病院へ呼ばれた。そこで説明されたのは、深津のバース性についてだった。

「今のところ、αへの振れが大きいようなので、そこまで怖がる必要はないと思います。ただ、揺らぎのあるβは急にバース性が変化することがあるので、ご両親も注意をしてあげてください」

 医者は穏やかな声でそんなことを言っていた。

 揺らぎ、とは。

「深津、この問題解いてみろ」

 数学教師に意識を戻させられて、深津は席を立った。黒板の前に立ち、チョークを手に取る。

 カツ、カツ、と淀みなく白を黒板に刻んでいく。難なく解けて、黒板はやがて白色の数式と解で埋まった。

「流石だな」

 数学教師が言う。深津は肩を竦めながら席に戻った。

 揺らぎとは、つまり、βでありながらも、いつβからバース性が変化するか分からない体質を指す。それは、Ωへ振れることもあれば、深津のようにαへ振れることもある。αにフェロモン値が振れ気味な深津は、数値的には今のところβではあるのだが、体質変化でαになる可能性を持っていた。

 だから、周りが深津をαだと思うのは、おかしいことではない。

 

 

 期末テストの結果も出て、あとは夏休みを待つばかりという時期のことだ。たまたま、その日の居残り練習組で深津と沢北が一番最後になった。深津は普段通りに部誌を書いてから帰ろうと、部室でペンを握っていた。それを覗き込み、沢北が「深津さんは字まで綺麗。完璧」などと言っていた。

 そんな何気ない会話の一コマとして、深津は一年前に話したことについて口にした。

「何でも卒なくこなせるだけでα扱いはやめてほしいピョン」

「でも、本当にαだと思いましたよ。実際、ほとんどαみたいなもんじゃないですか深津さんって」

 深津は眉を寄せた。ペンを置いて、部誌を閉じる。

「自分のバース性がフラフラ揺れてるのを感じ取りながら暮らすのは気持ち悪いピョン」

 深津は細く息を吐き出した。IH前で少なからず気が張っているからか、近頃フェロモンの揺れを感じていた。メンタルの乱れは天敵だ。常に平らかな心でいることが、揺らぎのあるβにとっては何よりも重要なのだと、医者に言われた言葉を思い出す。

 振り子のように、揺れが続く。

「深津さんって、Ωになれる可能性は無いんですか?」

 不意に両肩を掴まれながら、そんなことを言われた。目の前には、山王バスケ部始まって以来のイケメンだとか、秋田一格好良い坊主だとか言われている、一つ年下の後輩の顔。やたらと通った鼻筋を見ながら、深津はその眉間に指を突き刺した。

「いっだぁ!?」

 沢北は泣いた。

「すぐ泣くピョン」

「人の眉間を強打した人のテンションじゃないですよそれ!?」

 涙目の沢北をジロリ、と見やる。

「Ωにはならない、はずだピョン」

「はず」

「……オレの揺らぎはαに振れてるピョン。というより、男のβの揺らぎは基本的にαに振れるものだピョン」

「へえ」

 ようやく痛みが引いた沢北が、気を取り直した様子で距離を詰めてくる。深津は再度眉間への攻撃を試みたが、両手を掴まれてしまい舌打ちをした。

「深津さん、オレ、深津さんのこと好きって言いました」

 まあ、そうだ。先に着替え終わり部誌を書いていた深津に、ノロノロと着替えていた沢北は第一声で「好きです」と言った。深津は無視したし、沢北は泣いた。

 流したはずのやり取りを蒸し返されたことに深津は顔を顰めたが、沢北は全く動じなかった。

「深津さんは、自分がβだからオレを相手にしてくれないんですよね?」

 分かってるなら聞くな。深津は視線を逸しながら息を吐き出した。沢北が「うーん」と唸る。

「深津さんの揺らぎって、絶対にαにしか振れないんですか?」

「沢北」

 深津は低い声を出した。威嚇するつもりの声だったが、沢北は静かな顔で深津を見ていた。嫌なものが胸の辺りを覆っていくような感覚に襲われながらも、深津は沢北の腕を振り解く。

「Ωが欲しいだけなら、アメリカに行ってからでも見つければ良いピョン」

 わざと突き放すように言って、背を向けた。「深津さん」と呼ばう声が涙混じりだったが、聞こえないフリをした。

「オレは、Ωにはなれないピョン」

 これは、揺らぎのあるβ特有の感覚だ。自分の能力が、感覚が変化するのを誰よりも感じ取れるのは自分自身だ。確実に、深津はα性の特徴が強くなってきていた。

「オレ、深津さんにΩになってほしいわけじゃないです」

 鼻声の沢北が、深津の手を後ろから取った。それを握り返すこともできず、深津は目を伏せる。

「ただ、オレは……」

「沢北。IHも近いピョン」

 余計なことを考えるな。

 体温の高い掌を、自分のそれから引き剥がして部室から逃げ出した。

 

 

 おかしい。

 高校を卒業し、いわゆる強豪と呼ばれている大学に入学した深津は、鳴り物入りのPGとして既にベンチ入りを果たしていた。新人戦も終わり秋季大会へ向けて練習を続けつつ、大学生としてテスト期間もこなさなければならない。

 それは、そんな時期に襲いかかってきた。

「深津、調子悪そうだな」

 同学年にスポーツ推薦で入学した河田に言われて、深津は内心で舌打ちをした。表面に出てしまうくらいには、体調が良くなかった。

「病院、行けよ」

 有無を言わさぬ口調だった。一つ、大きな溜め息を吐き出してから、深津は頷いた。

 テスト期間で部活も休みだったこともあり、その日の内に病院へ向かった。上京してすぐに部から紹介されていたそこは、スポーツ医学だけでなくそれに付随するバース性に関する診察にも力を入れているので、深津自身の体質も考えての選択だった。

「深津さんね、フェロモン値がΩに触れてますね。何かあったかなここ一年くらいの間で」

「……」

 絶句してから、口を開く。医者に嘘を言っても無意味だと思ったからだ。

「昨年の八月頃――」

 

 

「思い出を、ください」

 そう言って俯いた男の涙があまりにも美しかったから。きっと、理由なんてそれだけだった。

 散々、何度も見せられたはずの泣き顔だというのに、深津を求めて零されるその雫は、見たこともない程に悲しく煌めいて見えた。

 数週間後には異国の地へ旅立つことが決まっていた、難からず思っていた後輩。様々な条件が組み合わさって、とうとう、深津はそれら全てを呑み込むことにした。

「明日の朝には、何もかも忘れて、お前に必要なものだけ見て進めるピョン?」

「深津さ……」

「約束できるか?沢北」

 語尾を消して、問う。

 深津の静かな声音に、後輩は、沢北は折れそうな程に歯を食いしばって、震えながら頷いた。

 果たして、深津の何がそこまでこのバスケの神に愛されたような男の琴線に触れたのかは、未だに分からない。

「深津さん」

 慣れてるわけもない準備を終えてから、沢北の自宅へと向かった。両親は夜まで出掛けていると言って、沢北の部屋へと引き入れられた。

 深津は、βだ。

 だから、Ωのように濡れはしないし、αのように極端に頑強な身体を持っているわけでもない。同性同士の行為に、怯えが無いわけがなかった。

 部屋に入った途端に抱き竦められ、項に鼻先を埋められる。香りもしないフェロモンを求めるように、沢北が大きく呼吸をしていて、流石に身を捩った。向かい合って、少しだけ高い位置にある瞳を覗き込むと、真っ赤な顔に潤んだ目がそこにはあった。

 これを、もらってしまって良いのか?

 相変わらず冴えたままの頭で思いながら、自分で全て忘れろと言ったことを思い出す。忘れるのだから、きっと深津は何も奪わずに済むはずだと。

「キス、して良いですか?」

「……お前がしたいのなら」

 言い終わらないうちに、噛み付くように口を塞がれた。覆い尽くすように食んでから、下唇を甘噛みされる。手を持ち上げて頭を撫でてやると、興奮した鼻息を漏らしながら、さらに深く口吻られた。

 誘導するように薄く口を開いて、ぬるついたそれを自分の口内に招き入れる。最初は拙かった動きが、まるで瞬時に学習したように縦横無尽に動き出して、堪らず腕を回した背中にしがみついた。

「ふっ、……っぅ」

 唾液を交換し合う度に、脳が茹だるような感覚に襲われる。舌を伸ばして絡め合うと、そこからジンジンとした熱が項まで伝播して、血液が上ってきているのを感じた。

 ようやく顔を離した時には、深津は身体から力が抜けて、沢北に寄り掛かるような体勢になっていた。ギュウ、と強い力で抱き締められる。

「うれしいです、深津さん。オレ、深津さんと……っ」

「まだキスだけピョン。別にこれだけでも良いけど」

「ヤです!」

 ガバリ!と肩を掴んだ沢北が覗き込んでくる。その瞳はやはりキラキラと光を湛えていて、深津は目眩を覚えた。

 手を引かれて、ベッドの上でまた抱き締められた。されるがまま、肩口に顎を乗せながら言う。

「準備はしたけど、多分オレは痛がるピョン」

「い、痛くないよう頑張ります!」

「無理ピョン」

 深津の容赦ない言葉に、沢北が「うう」と呻いた。また泣くのかコイツ、と思いながら、その後頭部をポンポンと撫でてやる。

「痛がっても気にするな。最後までやることが今回の目的ピョン」

「でも、オレ……」

「できないなら、やめるピョン」

「深津さん……っ」

 身体を離した沢北が涙声で言う。泣き虫だとは思っていたが、今日は涙腺が馬鹿になってそうだ。

 ぽふり、と背中からベッドに倒れて、沢北を見上げる。喉を鳴らして見下ろしてくる男は、涙目のくせに獣のような雰囲気すら纏っていた。一丁前に我慢をしている。

「沢北」

 深津はシャツのボタンを自分から外していく。一つ外れていくごとに、相手の箍も外してやれたらと思っていた。

「来い」

 言った途端、灼熱のような体温に伸し掛かられた。

 

「っ、あ」

 背後から貫かれ、逃げるように伸ばされた手は手の甲を覆われてシーツに縫い付けられた。衝撃も快感も逃がすことができず、揺さぶられるまま、深津は短い嬌声を何度もあげる。耳元で、「ふかつさん」と熱に浮かされた獣の鳴き声がしていた。

 ローションで慣らした後孔は限界まで広げられ、α特有の剛直に蹂躙されていた。コンドーム越しに脈打つそれを感じて、深津は感じ入った声を漏らす。痛みも確かにあるはずなのに、どんどん強くなる快感に、半ば混乱しかけていた。

「すご、深津さんの、ナカ……っオレのに絡みついてくるみたい」

「い、うな……っ!ぁ、や、あっあっ!?」

 性器の裏側を突かれて、背中が反った。すかさず覆いかぶさった熱い胸に、シーツへ全身を押さえつけられる。項を舐められて、ゾクゾクと背筋が慄いた。

 深津の項に鼻を押し付け、唇を押し付け、甘噛みをしては、「ふかつさん」と涙の混じった声を出すα。深津のαにはなれない、可哀想な沢北。

 がぶり。

 とうとう、深く歯を立てながら、沢北は深津を大きく揺さぶった。快感なのか苦痛なのかも分からないまま、前に回された手でペニスを扱かれて、深津は達した。収縮する後孔に刺激されて、沢北もコンドーム越しに精液を吐き出した。

 ハアハア、と馬鹿みたいな呼吸音だけが耳に入ってきていた。外はまだ明るくて、夏の日差しが遮光カーテンの隙間から二人を刺してきているような、そんな錯覚をした。

 ジワジワと痛みだした項に、深津は正気に戻される。背中にピッタリと重なってくたばっている沢北を、後ろ手に殴り付ける。

「いたっ!!」

「噛むのは許してないピョン」

 ずるり、とナカからペニスが抜け出ていく。飛び起きた沢北の横に仰向けになりながら、ぐったりと首を横向けた。ヒリヒリと痛む項は、それでいて不快ではなかった。いくら沢北が優秀なαだろうと、βの深津を番にはできない。ごっこ遊びのようなものだ。けれど、この痛みを覚えておけば、沢北に忘れられるのも何ということはないような、そんな気がした。

 同じように寝そべった沢北が、横から抱き着いてきた。犬のような奴だと思いながら、好きにさせる。あといくらかして、深津がこの家から出てしまえば、今起きたことは全て無かったことになる。明日の朝には、沢北は全てを忘れる約束なのだから。

「ふかつさん」

 眠そうな声で呼ばれる。「もう寝ろ」という意図を込めて頭を撫でながら、言葉を促す。

「好きです、オレ」

 長い腕が巻き付いてきて、離したくないと訴えていた。深津は何も言わない。黙って沢北の背を撫で続けた。

 好きです。

 沢北の可哀想な泣き声だけが、夏の午後に零れては、溶けて消えていった。

 

 なんていうのは、五億倍くらい美化された記憶である。現実は、「帰る」と立ち上がった深津の腰に沢北が縋り付いて、大泣きしながら尻に顔を埋めて駄々を捏ねるという地獄が展開された。

 せめてシャワーだけは一緒に浴びたいと泣きに泣かれて折れたのが大間違いで、なんとか解放され服を着て脱衣場から出たところで、沢北の父・哲治と出くわした。言葉を失う深津に少しだけ驚いた様子をしていた哲治だったが、深津の背後から聞こえてくる「ふかつさぁん」という情けない声に何もかもを察した顔をして、一つ頷いた。深津は沢北をタコ殴りにしたくなった。

 一礼をして、「帰ります」と言った深津に、哲治は「あっ、深津君」と引き留めた。丁度、ハーフパンツだけ身に着けた沢北が出てきて、向かい合う父親と深津に顔を真っ青にしていたが、無視をして哲治の言葉を待つ。

「IH最後の試合、最後のあの場面で栄治に託してくれて嬉しかったよ。ありがとう」

 深津は何も返せなかった。言葉も態度も、視線さえ返せないまま、もう一度だけ頭を下げて沢北家を後にした。逃げるように寮までの道を走って、自室に入るとタオルケットに包まって身を縮めた。

 礼を言われるようなことは一つもない。深津は沢北に何もやれないのに、大事なものを奪ってしまったのだから。

 最悪だ。

 呟いて、そのまま眠れぬ夜を過ごした。

 

 

「お前、沢北と寝ただろ」

 テスト期間も後半に差し掛かった頃、深津のアパートでテスト勉強をしていた河田に言われた。深津は視線をほんの少しだけ持ち上げて、すぐにノートへ落とした。

 そのまま、「河田」と名前を呼ぶ。

「病院に行ったピニョン」

「おー」

「フェロモン値がΩに振れてたピニョン」

「……そうか」

 河田がシャープペンシルを置いた。深津もノートを閉じて、今度こそ視線を上げた。

 医者には、唯一の心当たりである沢北との行為について話した。αと性行為をして、項を血が出るほど噛まれたと。もちろん、番になどなっているわけもないが、何となく、言っておくべきだと思ったのだ。

 医者の見解は、こうだった。

「オレの体質は確かにフェロモン値の揺れだピニョン。他の同じ体質の症例と同じでαに振れてたのも確かだピニョン」

「おい待て、血が出るほど噛まれたとまでは思ってなかったぞ」

 そこは後々重要になるので、あえて流す。深津は座椅子の背もたれに寄り掛かった。

「問題は、オレじゃなく沢北の方だったピニョン」

 つまり。

 αの中に、βのフェロモンへ影響を及ぼす体質を持つ者がいる。実はそこまで珍しくない体質だと推定されているこのタイプのαだが、実例の確認は非常に数が少ない。

「αがβを、しかもフェロモン値に揺らぎのあるβを『自分のΩにしたい』と思っている場合に、粘膜接触を伴う体液の交換をすると、起こることがあるらしいピニョン」

「なんだそりゃ、しかも珍しくないって」

「沢北のようなタイプのαはそれなりにいるピニョン。ただ、オレとアイツに起きたみたいなケースは条件が揃わないと起こらないから、確認例が少ないんだピニョン」

「条件?」

 深津は立ち上がって冷蔵庫へ向かった。適当にグラスに氷を入れて、二人分の麦茶を注いで戻る。

 ゴクリ、と一口飲んでから、「うなじ」と呟いた。河田が口を真っ直ぐに結んだまま唸る。

「Ωとαが番になるのは、Ωの項にあるフェロモン腺に、αの体液……つまり唾液を注いで反応させることで引き起こるフェロモン変化の一つピニョン」

 しかし、フェロモンというのは別にαとΩだけが持っているものではない。βにもフェロモン物質は存在しているし、その成分自体はαやΩと何ら変わらない。違うのは、フェロモンの濃度の傾きなのである。

「元々、フェロモン値に揺らぎのあったオレを、沢北が『Ωにしたい』と思いながら噛んだ。それが決定打になったピニョン」

「聞いたことねえぞ、そんな話」

「オレも数日前に初めて聞いたピニョン」

 溶けていく氷を見ながら、大きな溜め息を吐く。

「定期検診をしていくことになったけど、多分オレはもうΩになるピニョン」

 思ったよりも落ち着いていた。落ち着かなくなったのは河田の方で、尻の座りを直しながら、複雑な顔をしている。

「それはどういう顔ピニョン」

「いや、Ωになりかけてる深津の家に上がってるだけで沢北が面倒臭いことを言う想像が……」

「沢北には言わないピニョン」

 ピシャリ、と言い放った深津に、河田が困ったような顔を向けてくる。言外に「どうせオレが巻き込まれるんだから意地を張るな」、という意思がひしひしと伝わってきたが、深津は頑とした態度で「言わないピニョン」と繰り返した。

 麦茶を一気に飲み干した河田が、先程の深津より大きな溜め息を吐いた。胡座をかいて腕を組み、「分かったよ」と言う。

「監督とコーチには?」

「もう話したピニョン。今のところ大した変化は無いし、体調不良もサプリで整う程度だったピニョン。まあ、本格的にΩに傾いた時にどうなるかは、その時にならないと分からないし」

「うーん」

 急に唸りだした河田に小首を傾げると、「ちょっと時間くれ」と言われた。何の時間だよ、と思いつつ頷いて、その日はテスト勉強に集中することになった。

 

 そこから徐々に、深津のフェロモンはΩへ傾いていった。医者には「ヒートが来ない限りはβ」と言われ、確かに深津自身も大した身体的な変化は感じていなかったのだが、やはり少しずつ不安は募っていった。

 そして、そんなどっちつかずの状態が続いていた、大学二年の夏に深津は初めてのヒートを迎えた。ただし、それは非常に軽度なもので、予め処方されていた抑制剤を飲むと普段と何も変わらない日常を過ごすことができた。ちなみに語尾はピョンに戻っていた。

「とうとう来たか」

 河田が鼻を鳴らす。

「匂うピョン?」

「うーん?」

 どういう反応だそれは。というような顔でジロジロ見られて、深津は顔を顰めた。河田は一つ「うん」、と頷いてそんな深津の背中をバシバシと叩いてくる。

「安心しろ深津、お前はαにはモテねえ」

 喜べば良いのか少しくらいは憤るべきか迷うことを言われて、スン、とした顔をしていると、「あれの匂いだ」と河田が続ける。他にもチーム内のαの面々が集まってきて、代わる代わるに鼻を鳴らす。深津はチベットスナギツネのような顔でそれを見ていた。

「麦茶?」

「しかもあれ婆ちゃん家にあるやつ」

「香ばしいやつな市販のじゃなくて煮出してるやつ」

「謎の実家感」

「地元帰りてえ〜!」

「分かった、大体分かったからお前ら全員歯を食いしばるピョン」

 蜘蛛の子を散らすようにα達が逃げて行った。

 唯一逃げなかった河田が、腕を組みながら何かを考えていた。一年前にも同じ顔を見たのを思い出して、深津は眉を寄せた。

「何を考えてるピョン?」

「うん……実は、今の大学バスケ界隈でΩの選手について調べてたんだが」

「おい」

 深津は低い声を出した。他人のバース性を探るのはモラルに反する行為だ。しかし、河田は至って真剣な顔で深津を見下ろしていた。

「オレ達はお前のチームメイトだけど、Ωのことは守れない。分かるか深津」

「……」

 それは、現代社会における常識の一つだ。αはΩの突発的なヒートに遭遇した場合、救護活動を放棄する権利を有する。

「麦茶の匂いとはいえ、いざって時にオレ達は役立たずだ。麦茶の匂いとはいえ」

「殴るピョン」

 言いながら肩を殴りつけたがビクともしなかった。河田は「だから」と続ける。

「お前がいざという時に頼れる人間を持っておいた方が良い。その方が沢北も暴走しないかもしれない」

「なんでそこでアイツが出てくるピョン……」

「これは忠告だと思って聞けよ深津。沢北はやると決めたらやるし、欲しいと思ったものは手に入れないと気が済まない男だ。先輩だったお前の前ではメソメソした子犬のフリをしてただけで、絶対に今も諦めてない」

 不穏な発言に、深津は自身の腕を擦った。妙に確信めいた言い方をする河田を眉を寄せて見ていると、彼は苦笑するように息を吐き出した。

「同じαだからな、分かっちまうんだよ。だからな、同じようなタイプのΩの知り合いを作っておけ深津」

 そうは言われても、深津のような妙な匂いでヒートも弱く、体格も良いΩなどいるのだろうか。そんなことを考える深津に、河田は意味深な顔を向けてきていた。

 

 

「乾杯〜!」

 勢い良くジョッキをぶつけられて、危うくビールが溢れるところだった。そんな深津の様子など察することも無く、目の前のその人は上機嫌でジョッキを呷る。

「三井、飲みすぎるなよ」

「分かってるよ!あ、すんません生お願いします」

 未知の生命と遭遇したような顔をしている自信のある深津は、チビチビとジョッキの中身を口にした。

 ここは都内の某居酒屋。半個室の雑多すぎない内装が売りの良い店なのだが、目の前にはそれなりに因縁のある男が二人。

「三井、牧」

 名前を呼ぶと、対照的な印象の見た目の二人から動と静といった様子の眼差しがそれぞれ返ってくる。

 三井寿と牧紳一。高校時代に公式試合で当たったこともあるし、もちろん大学に入ってからも大会で見かけたりもしていた。この二人は、Ωなのだと河田が言っていた。だから、友達になってこいとも。

「そういや、河田は来ねえのか?アイツが連絡寄越してきたんだけど。うちに山王出身いてよー」

 無邪気に訊ねてくるのは三井だ。悪夢のようなあの「湘北戦」で、山王相手に四点プレーをやってのけた男。またの名を「松本のトラウマ」。

 深津はジョッキに伝う水滴をなぞりながら、「来ないピョン」と言った。三井が「ピョン!」と喚いたが無視した。

「アイツはαだピョン。だから、今日は来ないピョン」

「なんで?」

 なんでって。深津は図らずも助けを求めるように牧に視線を向けてしまった。どこか達観したような顔でやり取りを見ていた牧は、一つ溜め息を吐き出した。

「つまり、Ω同士でしたい話があるってことだろ」

「なんだよそれならそうと早く言えよ。えっ、深津ってそうだっけ!?」

「はあ……」

 一気に疲れながら、深津はジョッキの中身を呷った。

 二年前からのややこしくも面倒な話を、沢北の名前は出さずにすると、みるみるうちに三井の瞳が真剣味を帯びた。話し終える頃には、いつの間にか深津の隣の椅子に座って、「大変だったな」などと言いながら背中を擦るなどしてきていた。

 なんだコイツ。

 深津は再び牧に助けを求めた。牧は穏やかな声で店員を呼んで、「蜂蜜梅酒、ロックで」と頼んでいた。ちょっと可愛い酒を飲むな。

「深津、諦めろ。そいつは自分と同類と見ると一気に身内扱いするんだ」

 ついでにアボカドサラダを頼みながら、牧は諦観すら見せながら言った。女子力の高いものを頼むな。深津は生ビールのおかわりを頼んだ。

 深津の話を聞いた二人は、「なるほど」と頷いた。深津のフェロモンが麦茶臭いというクダリでは、笑いもせず何故かやたら神妙な顔で「なるほど」と再び言った。

「まあ、周りにΩでデカい奴なんてなかなかいねえよな。しかも、同じスポーツしてるとなるとますます貴重」

 唐揚げを咀嚼して飲み込んでから、三井が言う。この男、粗雑に見えて妙なところで育ちの良さが出るなと思った。

「お前達、よく二人揃ったもんだピョン」

「あー、それは」

 三井が視線を逸らす。引き継ぐように、牧が「うちは」と口を開いた。

「才能ではなく性質を見る。持っている武器と精神の兼ね合いを重視するカラーなんだ」

「なるほどピョン」

「三井はスリーがあるだけでなくコートを広く見る『頭』を持っている。それに、何より絶対に諦めない意志がある。と、監督が豪語していた」

「恥ずいからやめろって!」

 三井の頬が赤くなっていた。そこで初めて、深津は三井の首のチョーカーに気付いた。

 番がいるのだ。

 愕然とした深津に、三井は優しげな笑みを向けてきた。トントン、と自分の首元を指差して見せる。

「ヤダ、深津クンったらどこ見てんのよ」

 茶化すように言いながら、三井はやはり穏やかに笑った。丁度、運ばれてきた酒と追加の食事を牧が受け取って、「まあ、食え」と促してくる。アボカドサラダが目の前に山のように積まれていくのを、深津はぼんやりと見やった。

 店員も去って、ザワザワと音量の上がってきた居酒屋に紛れるように、三井は話し出した。

「オレ、フェロモンが大して出ない体質でさ。しかもコーヒー臭えらしいんだわ」

「コーヒー……」

 麦茶もあればコーヒーもある。フェロモンとは謎が多いなと思った。

 小さく唸った深津に、三井は笑いながら「けどな」と言った。

「オレのαには、甘いコーヒー牛乳の匂いなんだってよ。他の奴らには何ともないのに、アイツだけがオレを見つけてくれた。だから、番った」

 へへ、と照れ笑いをしてから、三井は深津の肩に頭を乗せてきた。パーソナルスペースが狭すぎる。

 しかし、深津はもう何も言わずにそれを甘んじて受け入れた。牧にも助けを求める意図ではなく、落ち着いた視線を向けられたし、牧もおかしげに笑っていた。

「そいつのこと、好きじゃなかったのか?」

 締めのうどんを啜りながら、三井が訊ねてくる。そいつとは、深津の首を噛んでΩにしたαのことである。深津は「ううん」と唸った。一口、うどんを食べて噛んで、飲み込む。

「好きとかどうとかよりも、アイツは眩しくて……手を伸ばしたくなかった」

「ピョンが消えた」

「ピョン」

「戻ってきた」

 アホな会話をしていると、デザートの柚子シャーベットをシャクシャクさせていた牧が、「深津」と呼んできた。

「また三人で食事でも何でもしよう」

「お、そーだよな!いやー仲間ができて嬉しいわ」

「似たような境遇だからこそ話せることもあるだろう。人に話せば気持ちの整理にもなる」

 深津は一つ、瞬きをした。

 不思議な縁が繋がった夜だった。

 

 

 それから、一ヶ月もしないうちに深津は三井のマンションに上がり込むまでになった。深津がそうしたかったわけではなく、三井の謎のコミュニケーションスキルによって、あれよあれよという間に懐へ引きずり込まれたというのが正しい。

 その日は、牧も一緒になって三井の部屋に泊まるつもりで集まっていた。外で飲むのも良いが、やはり込み入った話をするには宅飲みだろうということで、翌日の練習が休みの深津ははるばる呼び出しに応じた。

「そういえば、三井のαって」

 深津がふと思っていたことを言おうとしたところ、電話が鳴った。ディスプレイの番号を確認した三井は、「あ!?」と目を丸くして受話器を取った。

「おう、どうした?うん……ん、オレも」

 急に甘くなった三井の声に、深津は驚いて牧を見やった。相手が誰か察しているらしい牧は、黙って缶チューハイを傾けている。

「ていうかお前なんかしんどそうだけど体調でも……あ?誰だお前?さわきた?」

 三井の口から、絶対に出てほしくなかった名前が出てきて、深津はハッと顔を上げた。ザワザワと項の辺りから寒気に襲われるような錯覚がして、座ったまま後退る。

「沢北ってあの沢北かよ!?いや待て宮城はどうしたんだよ!?はっ……まさか宮城に手出そうってんじゃ……!確かに宮城は可愛いけど許さねえぞ!!」

 三井が何か阿呆なことを言っているが、それどころではない。深津は慌てて部屋から逃げようとした。冷静に考えれば何もしない方が良かったと後々思ったが、この時はとにかく沢北の気配から離れなければという気持ちでいっぱいになっていた。

 立ち上がった深津を見咎めた三井が、「あ?」と言った。

「おい、どこ行くんだよ深津。便所か?廊下出て右側な」

「待て、三井」

 深津の様子がおかしいことに気付いた牧が三井を止める。しかし、受話器からの声に耳を傾けた三井が、「え?」と眉を寄せる。

「おい、何言ってんだ沢北?あ?おい!?……切れた」

 受話器を置いた三井が振り返る。真っ青になった深津と険しい顔の牧に気付き、目を丸くしてから、すぐに何もかもを察した顔をして、そのまま流れるように土下座をしてきた。

「そういうことかよおおおおお!悪い深津!まさかこんなことになるとは……!!」

「いや、いい……ピョン」

「ピョンが取って付けた感じになってる!牧!牧!」

「まあ、不運だったと思うしかないだろうな」

 一人だけ物凄く冷静な牧に三井が泣きつく。深津とて泣きたい気分だったが、衝撃の方が大きくて動くことができなかった。とりあえず酒でも飲んでないと正気を保てそうにない。

 流石の沢北も、この物理的な距離がある状態では何もできはしない。それに、深津はただ三井の家にいるだけだ。沢北にはΩになったこともバレてはいない。だから、何も起きはしない。

「深津、項どうした?」

 不意に牧に言われて、深津はハッとする。無意識に自分の手で項を押さえつけていた。

「なに、も……っ!?」

「深津!?」

 急激に項から熱が広がるような感覚に襲われて、深津は蹲った。そして、慌てて駆け寄ってきた三井が抱きかかえてくれたところで、記憶は途切れることになる。

 

 

「一成君はきっとαだよね」

 こんなにバスケットボールが上手なんだもんね。

「――!!」

 勢いよく起き上がろうとして、上手くいかずに藻掻く。伸ばした手を誰かが掴んでくれた。

「深津」

 呼んでくる声は知っているそれだったけれど、求めていたものではなかった。違う、違う、と譫言のように繰り返していたら、冷たい掌が額を覆ってくれて、少しだけ呼吸が楽になった。

 薄っすらと開いた視界の先に、二人分の人影があった。

「みつい、まき……っ」

「深津、寝てろ」

「ヒートだ。いつもは軽いと言っていたが、辛そうだな」

 心配そうな三井と静かな顔の牧に言われて、ようやく深津は自分がヒートになっていることを自覚した。寝かせられているのは三井の部屋のベッドだった。

「昼を過ぎたくらいだ。とりあえず抑制剤を飲もう」

「ああ……」

 素直に頷いて、荷物から取り出してくれたらしい深津の体質に合わせた抑制剤を受け取る。水で流し込んで、またベッドに横たわった。全身が熱くて、下腹部が重くなったような感覚だった。そこから湧き上がる衝動が恐ろしくて、深津は震えながら自分自身を抱き締めた。

 初めて味わった「普通のヒート」は、なるほどΩという性別がかつては誤解されてしまっていたのもおかしくないだろうな、と思わせるものだった。それを理解している三井と牧は、深津が抑制剤を飲んだことを確認してから、リビングの方へ出て行ってくれた。二人と関わるようになってから、Ωは同じΩを守るように出来ているのだと知った。確かに、深津も目の前で苦しんでいるΩがいたら、絶対に助けたいと思った。だって、こんなにも辛いのだと知ってしまったから。

「……、た……っ」

 自分から手放したαの名前を、無意識に呼んでしまう。自己嫌悪に陥って、最悪の気分になっては、またαを求めてしまう。なんて浅ましいのだと、自分自身に失望した。

 幼い頃から、何をやっても卒なくこなしては、大人びた言動をするような子供だった。周りの大人には褒められたし、同年代の子供達、特に女の子というやつはませていて、皆そろって深津の気を引こうとしてきた。

 一成君はきっとαだよね。

 何度も言われた。興味は無かったけれど、「そうなのかな」と自分でも思っていた。だから、中学に入ってすぐの健診での医者の言葉に、深津は純粋に驚いた。

 バース性に揺らぎのあるβ。それが深津の性別だった。なんだそれは、と思ったが、直にαに振れるのではないかとも言われた。余計に気味が悪くなった。

「何が、αだ……っ」

 抑制剤が効いてきたのか、頭にかかっていた靄が少しだけ薄くなってきていた。起き上がって、三井が貸してくれたベッドの上で俯く。

 深津はαになるはずだった。だけど、そうはならなかった。

 それを選んだのは、他でもない深津自身だった。

「……?」

 インターホンが鳴った。急にリビングが静かになり、二人が玄関の方へ向かったのを足音で知る。深津は荒い息を吐きながら、二人を追うように廊下に出た。

「お前、なんでここに!?ていうかなんでここが分かったんだよ!?」

 三井が驚いた声を出している。牧も硬い声で「今は会わせるわけにはいかない」と言った。

「深津は体調不良だ。日を改めてくれ」

「何でアンタらが深津さんの身内みたいな態度なんですか?リョータに聞いたけど、三井さんってΩなんですよね?」

 ドア越しに、声がした。

 呼吸さえ忘れて立ち尽くした深津に、牧が気付いた。慌てて「戻れ」と肩を掴んで廊下の奥へ連れ戻そうとしてくるが、深津の足は動かない。玄関ドアの向こうを凝視していると、ドアノブが嫌な音を立て始めた。三井が怯えたように後退る。ドアの向こうから発せられているのは、αの威嚇フェロモンだ。ここにいるΩでは、太刀打ちなどできない。

「ねえ、深津さん」

 ぶわり。

 何か恐ろしいものが、そのドアの向こうにはいた。沢北の形をした、だけど、深津の知らない何か。そうだ、だって誰にもドアの向こうのそれが沢北だなんて確証は無い。海を越えてまで、知らないはずの三井のマンションまで、どうして沢北が来るのだ。

 ようやく、深津は一歩後退ることができた。すかさず牧が庇うように背中に深津を隠したが、その首筋には冷や汗が伝っていた。一番ドアに近い位置にいた三井は、カタカタと震えながら電話の子機を握り締めている。

「深津さんは、忘れろって言ったけど、そんなの無理ですよ。ねえ、分かってたんでしょ、深津さんも。なのに、他の奴の側に深津さんは平気でいられるなんて、おかしいですよ」

 みしり、とドアノブが軋む。沢北の声をしたソレは、何もかもを喰らい尽くすと決めた獣のような気配で、ドアの向こうから語りかけてくる。

「やっぱり、深津さんはオレのΩにする」

「沢北!やめろ!!」

 ドアノブを壊される。ようやく声を発せられた深津が、決死の覚悟でドアへ駆け寄った時だった。

 ごん、どさっ。

 何やら鈍い音がして、ドアの向こうが静かになった。言葉を失う三人が、「?」という顔をしたところで、インターホンが鳴った。

「あっ」

 その音に、真っ先に三井が我に返った。そのまま、鍵を開けてドアも開いてしまう。何をするのかと息を呑んだ深津だったが、ドアが開いて差し込んできた陽光の下、こちらを見ている人物を見て、さらに驚くことになる。

「先輩」

 そこにいたのは、烏の濡羽色の髪と目に、やたらと整った顔をした制服姿の男。

「来たけど。こいつ、何?」

 流川楓が、足元に転がる沢北を視線だけで指した。

 

 

「麦茶で良いか?」

「アイスコーヒー。氷と牛乳たっぷりのやつ」

「んなもんはねえ」

 緩い会話をする三井と流川に、深津の緊張はようやく解けてきていた。麦茶を受け取った流川が、一気飲みして「おかわり」と宣い、三井に小突かれている。

 ふー、と息を吐き出してから、流川は深津を見やった。何か鼻を鳴らしながら凝視されて、微妙な気持ちでそれを受け留めることしかできない。ついでに流川は牧も凝視して、「ほー」という顔をしていた。三井が麦茶のおかわりを差し出したので、その顔は一瞬のことだったが。

「カワリダネの祭り?」

 麦茶をゴクゴクした流川が言う。カワリダネ、とは。という顔をしていると、流川は表情筋が死んだまま「オレは」と続けた。

「めっちゃ強いΩなんス」

 何言ってんだコイツ。深津は牧に助けを求めたが、牧も自分と同じような顔をしていたので三井に視線を移したところ、三井は「その通り」という顔で頷いていた。これが絶望か、と思った。

 曰く、流川楓はΩのフェロモン値が振り切れたスーパーΩであり、ちょっとやそっとのαでは太刀打ちできないフェロモンを持っているのだという。深津が急なヒートで倒れたので、三井はその流川のΩの王様としての体質と知見に頼ろうと、招集をかけたらしい。

「で、着いたらサワキタがドアノブ壊そうとしてたから、フェロモンで気絶させた」

 三人揃って、リビングのラグの上に伸びている「サワキタ」を見やった。それから、三井が神妙な顔を流川に向ける。

「知ってるか流川。人間は普通そんな簡単に他人を気絶させられないんだぞ」

「呼んでおいて失礼」

 流川は拗ねてローソファを占領した。長い足がソファからはみ出していて、三井が叱りつけるも、梃子でも動かないというように寝の姿勢に入っていた。

「フカツさん」

 流川が半分寝ながら言う。

「怖がらなくて良いと思うっす。そのα、ただアンタのこと好きなだけ」

 切れ長の瞳は、星が散らばった宇宙のようにも見えた。この二年で随分と大人びた流川の顔は、確かに「Ωの王様」と言われればそのような気持ちになる造形に思えて、深津は深く息を吐き出した。長い腕が伸びてきて、深津の頬に手を当てる。

「素直になった方が、きっと幸せになれる」

 あと、バスケも続けられる。

 それだけ言って、流川は今度こそ眠りの世界に旅立った。三井と牧も、どこか見守るような顔で深津を見やってきていて、なんだか意地を張っている自分がおかしいような気持ちにすらなってくる。

 三井が立ち上がって、「ちょっと電話してくる」と言った。よく見なくてもその手が震えていて、悪いことをしたなと思った。そのまま寝室に向かった三井は、きっと自分のαの声を聴いて落ち着きたいのだろう。

「巻き込んで、悪かったピョン」

 膝を抱えた深津が言うと、牧は「いや」と首を振った。

「流川が言うほど、単純なものでもないだろう」

「牧は大人だピョン」

「違うな。臆病なだけだ」

 意外な言葉が飛び出て、深津は牧の顔を見やった。常の落ち着き払った表情と変わりなく見えるが、きっと、腹の奥ではこの男も色々なものを抱えているのだと、ここにきて気付いた。持ち上げた手で、その頭を撫でてみる。牧は抵抗しなかった。

「初めて沢北を見た時、実は怖かったんだピョン」

 深津は吐息を漏らすように言う。

「バスケのことだけを考えて生きてきた、自分とは別の生き物。言葉が通じるかも分からないような、そういう不安があったピョン」

 立ち上がって、今は穏やかな寝息をたてている沢北の横に膝を付いた。そういえば、すっかりヒートは治まったな、と気付く。随分と分厚くなった胸に手のひらを当てたら、規則正しい鼓動が返ってきてホッとする。

 あの日、全て忘れることを条件に沢北と身体を重ねた日、深津はきっと分かっていたのだ。沢北が自分をΩにしたがっていることも、自分が沢北のΩになりたがっていることも。分かっていて、目を背けたまま手を伸ばしたから、上手く繋ぐことも離すこともできなかった。

 この手を、離してやるべきなのだろうか。

「お前、何でオレなんかが良いんだピョン」

 胸に当てていた手を、大きな掌に重ねた。途端、強い力で握られて、引き寄せられる。一気に近付いた身体から、甘い砂糖の匂いがした。

「深津さんだからです」

 耳元で、沢北の声がした。視線を横向けると、沢北の横顔があった。肩に顔を埋めるように、沢北が抱き着いてくる。背中が軋むほどに抱き締められた。

「深津さんだから、好きになったんです。オレ、深津さんが好き。深津さんのくれたパスが好き。深津さんの可愛い語尾が好き。深津さんの静かな目が好き。ちょっと毒舌なところも好き。みんなに頼られてたところも好き。けど、本当はオレだけの深津さんになってほしかった」

 沢北の声がどんどん涙に濡れていく。

「ふかつさん、すきです。……っおねがい、します。おれのこと、深津さんのαにして……っ」

 グシャグシャに泣きながら、沢北が言う。身体を離して、深津はその顔を両手で挟み込んだ。秋田で一番格好良い坊主なんて文句も型なしの、ブサイクな泣き顔を晒す、深津のα。

 こんなに簡単なことが、あまりにも遠回りをして、意地を張り続けてしまったものだから、見えていなかったのだなと思った。

「すぐ泣くピョン」

 そう言って、深津は沢北の瞼に口吻けた。

 

「エージ、そろそろ機嫌直せよ」

 せっかく帰ってきたってのに、なんだその腑抜けた態度は。

 父親が何か言っているのを、沢北はぼんやりしながら聞き流していた。シーズンオフになるとすぐに帰国した沢北は、成田空港に着くやその足で秋田へと向かった。それもこれも、恋人である深津による命令だったわけなのだが、正直なところ全くもって納得はしていなかった。

「だって、親を大事にしない奴は嫌いピョンって……深津さんまた語尾ピョンになってたな可愛い」

「エージ……」

 可哀想なものを見る目を向けてくる父親を、実家のリビングで長年愛用しているソファにぐったりと寝そべりながら見上げる。中身が若いので気付きにくいが、父・哲治もそれなりに歳を取ってきている。確かに、深津の言う通り親孝行はしなければならないな、と今年で二十四歳になる沢北の真っ直ぐな部分は頷いていたが、沢北の深津が絡むと歪みまくる部分は、「あんなんただの時間稼ぎ」と喚いていた。それもまた事実なので、二重の意味で泣きたくなる。

「深津さん、オレのこと好きじゃないのかな」

 ウジウジする息子に、キッチンで昼食を用意している母親が「まったく」と言う。

「どうしてバスケ以外だとこうなのかしらね」

「だって……」

「ところで、今晩から私とお父さんは旅行に行くからね」

「え?」

 ようやく起き上がった沢北に、母親は「自分で食事の用意できるわね?」と続ける。それは良いのだが、ならば何故自分は帰ってきたのだと、沢北は訝しげに両親を見やった。哲治は「ママと旅行なんて久しぶりだなあ」とウキウキしていて、その脂下がった顔が物凄く腹立たしかった。

 嫌味の一つでも言おうかと荒んだ心で思った時、インターホン代わりのベルが鳴った。母親が「あ、来たかしら」と応対に向かう。

「エージ」

 向かいのひとりがけソファに腰を下ろした哲治が、なんだかいつになく真面目な顔で呼んでくる。沢北は身を起こして父の視線を受け止めた。

「お前はバスケ馬鹿だけど、悪いやつには育っていないと、親としては思ってる」

「うん?」

 何を言うのかと口を曲げると、哲治は「だからな」と続けた。

「お前のΩが決めたことを、その選択を尊重できるαであってほしい。いいかエージ、いつだって選ぶのはΩであって、オレ達αじゃないんだ」

 そう言って、哲治は片頬を持ち上げて見せた。沢北は、一つ瞬きをした。

 リビングのドアが開く。それから、沢北の大好きな、甘やかで芳ばしい匂いが、そこから香ってくる。思わず首を振って見ると、そこには、数日前につれない態度で沢北を秋田へ送り出した恋人がいた。

「親孝行したピョン?」

 訊ねられて、沢北は泣いた。「ごめんなさい」と言ったら、思いっ切り眉間を指で突かれた。両親が笑いながら、「元気な姿を見せてくれただけで十分」と言っていた。

 それから、深津も交えて昼食を摂ってから、夕方には両親は旅立っていった。玄関先で走り去る哲治の車を見送って、家の中に戻る。先を歩く深津の指先に、自分のそれを絡ませた。抵抗されなかったことにホッとして、二人でリビングのソファに腰を下ろした。

「三井が引っ越すから、手伝ってたピョン。宮城と一緒に暮らすって」

「うん、リョータから聞きました。アイツ、色んなこと考えて日本でバスケするって決めたらしいです」

「そういう選択ができる奴だから、オレ達は負けたのかもしれないピョン」

「えー、あの試合のことまだ引きずってるんですか?」

 堪らなくなって、ぎゅう、と抱き締めたら素直に体重を預けてくれて嬉しくなる。確かに、宮城リョータは凄い奴だし、NBAでだって頑張れる奴だと沢北は思っていた。だけど、きっと宮城にはそれより先のことが見えているのだろう。バスケ以外がてんですっからかんな沢北には無いものを持っている男だから。

「お前は、自分のことをバスケ以外すっからかんだと思ってるだろうけど」

「えっ何で⁉深津さんエスパーだったの⁉」

「そうピョン。ずっと秘密にしてたけど、お前の考えてることは何でも分かるエスパーなんだピョン」

 珍しくおどけてみせる深津に、沢北は胸がくすぐったくなって、口をもにょもにょとさせた。腕の中から覗き込んでくる顔は相変わらず「無」という感じだったが、ほんの少し瞳が緩まって、「沢北」と呼ばれる。

「すっからかんじゃないから、オレはΩになったピョン」

「うっ……」

 その話題は沢北の胸を鈍く殴りつけてくるものだった。自分自身でも知らなかったとはいえ、まさか深津をΩにしてしまったのが自分の体質だったなんて、と当時は申し訳無さと嬉しさとで大混乱して、やがて全部を許してくれた深津にまた惚れ直した。

 緊張した沢北の背中を、深津の手のひらが撫でてくれる。

「お前の、好きなものに真っ直ぐなところが羨ましかったピョン」

 それから、怖かったピョン。

 そう言って、深津は笑った。身体を少しだけ離して覗き込んできながら、沢北の頬をペチペチ、と叩いてくる。

「番には、まだなれない」

 語尾を付けずに言われた台詞を、沢北は実のところ予感していた。だから、大きく息を吸って、吐いて、父親の言葉を思い出してから、一つ頷いた。

「分かりました」

「オレは、お前にはバスケに夢中でいてほしい」

「はい……」

 俯きかけた沢北を、深津が強く抱き締めてきた。

「そういうお前を、もう少しだけオレに見せてほしいピョン」

「はい……っ」

「泣いたらシないピョン」

「ええ⁉」

 ガバリ、と顔を上げると、目の前には呆れたような顔。その頬が少しだけ紅潮しているのに気付いて、一気に体温が上がる。涙はすっかり引っ込んでいた。

「ふ、ふかつさん、今」

「……今朝からヒートになってるピョン」

 くらり、と目眩を覚えて沢北はソファの上でくたばった。顔を両手で覆って「神よ」と英語で言ったら、「アメリカ人みたいな反応やめろ」と殴られた。

 

 母親が綺麗に保ってくれている自室で、そのベッドの上で深津と向き合った。そういえば、初めて深津とつながった日も、ここだった。プロになってから少し伸ばしているのだという髪に指を差し入れると、自分と同じシャンプーの匂いに混じって、深津自身のフェロモンの匂いが立ち上っているようで、ゴクリ、と喉が鳴った。

 ヒートになっている深津を抱くのは初めてだった。誤って番ってしまわないように付けられたシリコン製の幅広なチョーカーが、守るようにその匂いの元を覆っていたが、それでも甘美な匂いは沢北を誘惑し続けている。

 自分が大暴走をして日本へ弾丸で戻った日のことを思い出した。あの時は、ずっと連絡もできないどころか、他の山王の面々すらも沢北への深津情報を遮断していたものだから、不意のことで頭に血が上ってしまったのだ。気付いたら日本に戻っていたし、気付いたら事前に宮城との会話で知っていた三井のマンションを探し出していた。そして、気付いたらそのマンションのリビングに寝かせられていて、深津が隣にいた。その時の安堵感といったら、他の何かで例えることが難しいようなものだった。

「キスして良いですか?」

 緊張しすぎて変なことを聞いてしまう沢北に、深津が呆れたように笑う。

「お前がしたいのなら」

「深津さん」

 呼びながら、厚ぼったいそれに自分の薄い唇を重ねた。いつもより体温が高いからか、以前にキスをした時より熱っぽい温度と感触に、まるで溶けそうな心地になる。頬を覆って指先で撫でながら、キスを深めていく。唇を割いて歯列を舌でなぞると、深津の肩が跳ねた。可愛い、と思いながらお伺いを立てるように音を立てて唇同士を合わせて、ほんの少し離れると、おずおずと口を薄く開けてくれた。

「んっ……ふ、ぅ」

 鼻にかかった深津の声があまりにも色っぽくて、下腹部に熱が集まるのを自覚した。まずいな、挿れる前に出ちゃいそう、なんて脳内で自分を茶化しながら、深津の口内を堪能する。自分のものより薄い舌を絡め取って、唾液まで啜って飲み込む。深津の全てが欲しくて仕方がないのだと、高校生の頃から変わらない想いを込めて、快感に跳ねる身体を抱き締めた。

 ようやく顔を離して覗き込むと、真っ赤になって息を上げた深津は、「しつこいピョン」と眉を寄せていた。昼に抑制剤を飲まなかったというから、もうヒートは抑えられていないのだろう。それでも、普通のΩよりは随分と軽いのだと言っていた。

 シャツの隙間から手を差し込んだ途端、驚いて手を引っ込めてしまった。訝しむ深津に、「待って!」と慌てた声を出してしまう。

「沢北?」

「ふかつさん、めっちゃスベスベ……柔らかい、なんで……え、エロすぎ……!」

「はあ?」

 深津は首を傾げなら男らしく自身のシャツのボタンを全て外して、その腹を自ら撫でていた。それから、沢北と同じように固まって、「なるほど」と半眼になるや、沢北の手を掴んで自分の身体へと導いた。「待って、心の準備が」などと女々しいことを言う沢北に、有無を言わさず自分へ触れさせる。

「これがΩだ、沢北。ビビったならやめるピョン」

「や、やめないです!」

 必死で涙を堪えて、鼻水を啜りながら深津の肩を掴む。そのままベッドに押し倒して、白い腹と胸に手を下ろした。高い体温に、滑らかな感触。まるで吸い付くような肌は、沢北の手を歓迎するようだった。

「ん、ぅ……っ」

「は、やば……はあ、深津さんの肌、気持ちよくて…ここも、美味しそう」

 指先で胸の赤色を弾いて、舌で舐る。身を捩りながら、深津が嬌声を漏らした。その声にまた煽られて、沢北はどんどん行為に集中していった。深津の服を全て剥ぎ取って、ベッドの外に放り投げてしまう。すると、長い腕が伸びてきて、沢北の服を掴んだ。

「お前も脱げ」

 息を乱した深津が言う。勢いよく全て脱いで、裸の肌同士で抱き合った。またキスをしながら、腰を撫でて腹を撫でて、奥まった部分へと触れる。ぬるついたものが指先に触れて、「本当にヒートなんだ」と頭が茹だりそうになる。リップ音と共に唇を離して、「触りますね」と囁くと、真っ赤な顔で頷かれた。

 溢れてきている愛液を絡め取って、慎ましいそこに指を一本差し入れてみる。そこも、前にヒートでない時にした時とは、まったく違う感触になっていて、「Ωって凄い」と沢北は感動を覚えた。ナカを優しく慣れさせるように抜き差しをして、少し広げるようにする。それを繰り返して、指を増やすと深津が背を反らして喘いだ。前立腺に触れたらしい。気持ち良さそうなので、探るようにそこを責めてやる。

「ひ、あ♡や、め……っさわきたっ」

「気持ちよさそうですね。ナカ、きゅう、ってなってますよ」

「い、うな……っあ、あ!♡♡」

 ジタバタし始めた脚を掴んで、肩にかけてしまう。より晒される形になった後孔に、ゴクリ、と生唾を呑み込んだ。沢北の指をもう三本呑み込んだそこは、しとどに濡れて、白濁気味な愛液を溢れさせていた。かなり感じてくれているのだと、嬉しくなる。

 ゴムを着けようとベッドサイドに手を伸ばしたら、「いい」と腕を掴まれた。えっ、と驚いて見ると、快楽で蕩けた深津の目が、沢北を見上げてきていた。

「ピル、飲んでる。大丈夫、だから」

「でも」

「いいから、沢北」

 そこまで言って、深津は言葉を失ったようだった。代わりに、燃え立つようなフェロモンが発せられて、直に沢北を煽ってくる。甘くて芳ばしい、沢北だけを誘惑してくるのだというΩの匂いが、「欲しい」と強請ってきていた。

 我慢の限界だった。両脚を抱えて、蜜を垂らすそこに自身の切っ先を触れさせた。期待と不安でドロドロになった深津の目が、沢北を一心に見上げてきていた。

「深津、さん」

「ん」

 頷いたのを確認するや、ずぶずぶ、とそこに自身を沈ませた。途端に中のヒダが歓喜したように絡みついてきて、あまりの快感に歯を食いしばった。半分ほど入ったところで、大きく呼吸をする。それから、一息に貫いた。深津が喉を晒す。

「――っあ、あ♡」

 甘い声に高められながら、ゆっくりと律動を始める。一突きして腰を引く度に、愛液が結合部から散って、「エッロ」と声が出てしまった。聞き咎めた深津に、尻を足で蹴られたけれど、それすら嬉しくて笑ってしまう。

「は、すご……っ深津さん、前触らなくて大丈夫、ですか?」

「ぅ、あ♡ひ、んっ……い、い……もう、前、触ってない……あ!?」

 何それエッチすぎないか、と思ってしまったら止まらなかった。深く突き挿れて、そのまま奥をノックするように動く。

「ばっ、深い、ぁ、あっ!♡あ!♡」

「は、深津さん、っキス、したいです」

「ひっ♡やっ、んぅ……!」

 腕を身体の横に付いて、首を伸ばしてキスをした。口吻たまま腰を使うと、深津は涙が滲むほど感じ入っているようで、みるみるうちに独占欲と優越感が満たされていく。この人をこんなに気持ち良くしているのが自分なのだという、圧倒的な事実に、長い間の飢餓感が満たされていくような気さえした。

 キスをしたまま、奥を突く。こちゅん、と何かに当たって、「おや」と思った途端、深津の身体が大きく跳ねた。

 これは、まさか。

 確信を持って、そこを優しく突いてやると、その度に合わさった唇の間から泣き声とも喘ぎとも取れる声が漏れ出て、深津はビクビク、と身体を跳ねさせた。

「ふ、はあ……っふかつさん、きもちいーね?子宮、降りてきちゃってんだ♡」

「あ、あっ♡あ、そこっ♡や、だ……さわ、きた……っ♡」

「かわいい、怖がらなくて大丈夫、ですよ。気持ち良いだけ」

 過ぎた快感に涙を零して怯えた顔をするのが、あまりにも可愛くて、沢北は一気に射精感が込み上げてくるのを自覚した。深津は既に何度もナカで達しているのか、「もう、むり」と身を捩っている。

 ごめんなさい、もう少しだからね。

 そんなことを口には出さず、またキスをした。そのまま、押し付けたペニスで子宮をとちゅん、と嬲る。途端、深津の後孔がギュウギュウに引き絞られる。

「ひ、あっ♡イク、ずっと、イッて……さ、きた♡あっ♡んう♡」

「オレも、深津さん……!」

 絶頂の瞬間、深く口吻る。射精している間も舌を絡めて上顎を舐って、深津の全てを味わうようにしつこくキスをし続けた。深津も全身で沢北にしがみついてきて、逃がせない快感に耐えるように、抱き着く腕に力が籠もっていた。

 長い射精がようやく終わった頃、なんとか離してやれた身体を、労るように撫でさすった。それだけで感じてしまうのか、ひくり、と慄いては「あ♡」と喘ぐので、危うく抜かずにもう一発いけてしまいそうで慌てて深津のナカから抜け出した。

「深津さん」

 息を整えながら、ぎゅう、と抱き締めた。少しだけ迷った腕が、宥めるように背中に添えられた。

「好きです」

 もう何度言ったか分からない言葉を口にした。チョーカー越しに首筋に唇を寄せて、スン、と鼻を鳴らす。まだ快感の波が引いていないらしい深津は、また肩を跳ねさせて、怯えたように首を竦めていた。

 また怖がらせちゃったかな。

 少しだけ落ち込みながら、それでも深津を離してやれない。けれど、それも含めて深津は受け入れてくれたのだから、絶対に手放したりしないと決めていた。

「さわきた」

 熱っぽい深津の声が沢北を呼ぶ。後頭部を優しく撫でられた。

「ちゃんと好きだ。オレも」

 語尾が無い。

 ボロリ、と目玉から熱い塊が零れ落ちた。次々に落ちていくそれを止める術が分からなくて、沢北は声にならない声で呻くことしかできなかった。それに気付いた深津が、呆れたように笑う。

「すぐ泣くピョン」

 

 

「すみませんでした」

 それから数時間後。沢北は正座をして平身低頭謝っていた。それをソファの上から睨めつける深津は、怒りよりも疲労の濃い顔で「ピョン」と言った。とうとう語尾しか言ってくれなくなっていた。

 深津からの「好き」が嬉しすぎて、浮かれと感動でぐちゃぐちゃになった沢北は、それから何時間も深津をベッドに閉じ込めた。何度も「もう無理」と言われたのに、「もうちょっとだけ」を数えきれないくらいに繰り返して、とうとう深津は意識を手放してしまった。

 気を失って反応しなくなった深津に、ようやく我に返った沢北は真っ青になった。大混乱に襲われたまま、アメリカで仲良くなったα仲間である宮城リョータにわざわざ国際電話をして、「オレ今普通に忙しいんだけど」と叱られながら、自分のやらかしと、どうすれば良いのか分からないことを涙ながらに訴えた。

「普通に起きたら水分補給させて食えそうなら飯食わせれば大丈夫だろ」

 宮城は鼻でもほじってそうな様子で言った。沢北は「深津さん死んだらリョータのせいにする」と泣いた。

「それで?噛んだのかよ?」

 呆れと面倒臭さとお節介の入り混じったような声で、宮城が訊ねてくる。それに「ううん」と言いながら、意識の無い深津の頬を撫でた。

「オレに、バスケに夢中でいてほしいんだって」

 ほんの少しのいじけを混ぜながら言うと、宮城は「へー」と感心したように言った。

「すげー愛されてんね、エージ」

 じゃ、オレ出かけるから。雑炊とかうどんとか、胃に優しいもん作ってやりなよ。

 それだけ言って、宮城は通話を終わらせた。無機質な電子音を聞きながら、沢北は瞬きを繰り返した。

 愛されてる?

 ぼんやりしたまま立ち上がり、キッチンで色々と準備を始めた。米を炊くために炊飯器をセットして、冷蔵庫の中身を確認する。母親が言っていた通り、食材はしっかり詰まっていた。何もかもお見通しというか、そういうつもりで旅行に出てくれたらしい。

 そうして、深津がいつ起きても良いように準備をしながら、沢北はずっと宮城の言葉について考えることになったのだった。

「深津さん、ごめんなさい」

 なんとか目を覚ました深津に水分を摂らせ、何か食べられそうか聞いて、二人で卵入りの雑炊を食べた。やっと落ち着いた頃、リビングで物凄く気不味い雰囲気になり、耐えられず沢北は土下座をした。深津は、大きな溜息を吐くと、また「ピョン」と言った。沢北は心臓がヒュン、となっていた。

「誰かと電話してたピョン?」

 不意に言われて、「え、あ、はい」と頷く。

「夢現に、そんな気がしてたピョン」

「リョータに、どうしたら良いか聞いて……あの、深津さん」

「なんだピョン」

 すげー愛されてんね。

 宮城に言われた言葉が蘇る。急に恥ずかしくなってきて、頭に血が上ってくるのを感じた。深津が目を丸くしている。

「オレ、バスケ頑張ります」

 深津の手を握り締めて、沢北は言った。深津の気持ちも、宮城に言われたことも、唐突に理解してしまった。

 そうか、深津さんは、バスケをしているオレのことが一番好きなんだ。

 そう思ったら、途轍もなく嬉しくなって、心臓がバクバクしだした。周りから浮いていた自分が、強豪校に入って手に入れた仲間と、最高のパスをくれる日本一のガード。こんな単純なことだったのに、なんだかごちゃごちゃと考えて拗らせて、怖がらせたりして、馬鹿みたいだなと思った。そうしたら、おかしくなってきて、笑いが込み上げた。

 ははは、と笑って、深津の腕を引いた。自分ほどではないが上背も体重もある身体を、しっかりと受け留める。

「とうとうおかしくなったピョン?」

 深津が労るように沢北の頭を撫でてくる。失礼なことを思われていそうだが、それでも良かった。自分を好きだと言ってくれて、自分の一番を大事にしてくれる、とんでもない人に沢北は愛されているのだから。

「深津さん、好きです」

 抱き締めて、ギュウ、と力を込めながら言ったら、「知ってるピョン」と抱き締め返された。

​END

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