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カレーオメガとスパイスアルファ

清牧/フェロモンがカレーくせえΩ牧とスパイスの匂いのα清の話。

 この世には、男女性とは別に「バース性」が存在している。

 今や常識となり、小学校でも時間を設けてバース性に関する授業が行われて、中学生頃には大多数のバース性が確定する。個人差はあれど、十代の後半までには大半の人間は三つのバース性に分けられる。

 清田信長は、αである。ただし、どうにも世間のイメージするαとは様子の違うαだった。一般的にαは支配的な一面を持っていたり、Ωとβ問わず惹きつけるカリスマ性があったり、高身長だったりする。これは、Ωがよりαに好まれるために容姿が美しくなるのと同様に、αは自身のΩを得るために高身長で身体能力が高く頑強さを有するよう進化してきたのだと言われている。

 身体能力は高いと思う。身体も頑丈だし、とそこまで考えて清田は止まってしまう。

 日本人にしては高めとはいえ、バスケ選手の中では高身長とまでは言えなかった。身長に見合わぬ跳躍力でダンクを決められる自分を清田は誇っていたが、いわゆる「αっぽい」高身長というのは、ある種の憧れではあった。

 中学三年時の健康診断でαと診断されたが、医者に言われたのは「要経過観察」という内容だった。

「清田君ね、フェロモン値に揺らぎも無いし、αなのは間違いないです。数値が低めなのがちょっと気になるところなので、様子見としましょう」

 どういうことだ?という顔をしていると、医者は続けた。

「恐らく、君はΩのフェロモンを感じ取ることができないと思います」

 なんだそりゃ。

 中学三年生の清田は大きく口を開けて呆けた。

 

 

 海南大附属高校から推薦をもらって、二月の末には練習に参加することになった。入寮は少し先の予定なので、しばらくは土日のみ電車で通うことになる。

「ん?」

 カレーの匂いがした。

 海南大がある駅への乗り換え駅で、清田は立ち止まった。カレー屋が近くにあるのかな、そうは思いながらも意識がそのカレーの匂いに向いてしまう。

 どっちから香るのか探っていると、急にその匂いは消えてしまった。まるで、迷子になったような気分になって、清田は辺りをキョロキョロと見回したが、もうその匂いはどこからも香ってはこなかった。

 

「うん、やっぱり良いな清田!」

 海南の監督である高頭力が嬉しそうに頷く。褒められた清田は上機嫌で、これから先輩になる高校生達に質問をしたりアドバイスをもらったりと、充実した時間を過ごした。しかし、一つ気になることがあった。

「牧さんは今日お休みッスか?」

 海南のPGであり部長でもある牧紳一がいなかったのだ。部活開始の挨拶も副部長がしていて、牧を間近で見られると期待に胸を膨らませていたため、拍子抜けしてしまっていた。

 先輩達は「あー」と間延びした声を出しながら、「そういう時期か」や「気付かないよなあ」などと目を合わせて頷いている。首を傾げる清田の頭を、高頭がポンポンと柔く叩いた。

「牧は病院だ」

「え!?け、怪我とかですか!?」

「違う。まあ、次回の練習の時にでも本人に聞いてみろ」

 一同に何故か微笑ましい視線を向けられながら、清田は疑問符を浮かべるしかなかった。

 初日ということもあり、その日は清田だけ早めに上がることになった。監督と先輩達、それから、体育館に挨拶をしてから、一人で更衣室へ向かう。

 今日は調子が良かった。高校生の高いレベルに混ざって練習すると、自分が引っ張り上げられるような気がした。鼻歌交じりに、更衣室のドアを開いた時だった。

「――?」

 匂いがした。あの、乗り換え駅で嗅いだのと同じカレーの匂いだったが、あの時の数倍は濃いそれが、まるで質量を持っているように清田に覆い被さってくる。

「お前……ああ、清田か。今日から参加だったな」

 声がした。低くて重みのあるそれが耳に入ってきた途端、鼻から感じる匂いと音とが混ざり合って、清田はそこからの記憶が一瞬途切れていた。次に我に返った時、目の前には目を丸くする日に焼けた顔と、更衣室の床があった。フーフー、と獣のような呼吸をしているのは、他でもない自分自身だった。

「まさか、お前……っ」

 驚いて起き上がろうとする身体を押さえ付けて、その首筋に顔を寄せる。そこから香るのは、あのカレーの匂いだった。美味しそうで、きっと口に入れたら幸せな気持ちになる、そんな匂い。それが食欲なのか性欲なのかも、もう清田には分からなかった。

 組み敷いたその長身は、牧紳一だった。清田より身長もあって、きっと力もあるはずなのに、牧はまるで身体に力が入らない様子で見上げてきていた。清田の唇が、舌が、歯がその首筋に触れる度に、ビクリ、と身体を跳ねさせては、潜めた声を漏らしている。

「まきさん……、いい匂い」

 ガジガジ、と首の筋を甘噛みしながら言うと、牧は「なに?」と困惑した声を出していた。それは確かにカレーの匂いなのに、清田は下腹に熱が溜まっていくのを自覚していた。すり、と牧の太腿に擦り付けるように腰が動いてしまう。

 不意に、牧が身を捩って逃げようとする。清田の顔を押しやって、背を向けたところに後ろから抱き着いた。ひくり、と鍛えられた身体が震えて、背が丸まった。眼前に晒されたそこに、鼻を擦り付ける。

「清田、待て……っぅあ!」

 藻掻くように床に伸ばされた牧の手に、自分のそれを重ねる。耳元で甘えるように「まきさん」と言うと、とうとう、牧の身体が崩折れた。清田が触れる度に跳ねる身体をギュウっと抱き締めて、そして、そこで清田の記憶は途切れた。

 

 次に目を覚ますと見知らぬ天井が広がっていた。寝起きの目を何度も開け閉めする。

 何が起こったのだったか、と寝ぼけ眼のまま起き上がると、寝かせられていたベッドの様子と周りを囲む白色のカーテンから、ここがどこかの保健室のような場所ということに気付く。アルコール消毒の匂いに眉を寄せたところで、カーテンが開けられた。

「起きたか。良かった良かった」

 いや、良くはないのか。

 そう言って参ったような顔をするのは、高頭だった。そこでようやく、更衣室での出来事を思い出し、清田は真っ青になった。起こるはずのなかったことが起きてしまったと、涙目で高頭を見上げることしかできない。

 そんな清田の様子に、高頭は「ふむ」と唸るや、部屋の外へ顔を出し、すぐに戻ってきた。その隣に、牧がいた。いよいよ涙目から泣き顔に変わりながら、清田は布団に潜り込んで必死に謝ることしかできなかった。

「清田」

 布団の外から牧が呼んでくる。静かで穏やかな声だった。まるで、何も起きてなどいないかのような。

「ごめんなさい……っごめんなさ……っオレ、なんで……っ」

 清田は泣いた。だって、医者に言われたのだ。清田はΩの匂いが分からないかもしれないと。実際、近くにΩがいても清田には分からなかった。なのに、どうして。

「オレ、まきさんのこと……っ」

 断片的な記憶の中で、確かに牧を威嚇フェロモンで押さえ付けて組み敷いた。味わったこともない快感を覚えながら腰を振って、そして、その項に歯を突き立てた。

 ガタガタと震えながら泣く清田の頭に、布団越しに温かいものが触れた。それが、優しく力を込めて、頭を撫でてくる。

「落ち着け。あれは事故だったんだ。お前は悪くない」

 牧が言う。優しい手と体温に甘えたくなる自分を振り切って、布団から飛び出て牧の手を掴んだ。急な清田の行動にも、牧は眉一つ動かさずに視線を寄越してくる。ボロリ、とまた涙が落ちた。

「ま、まきさん……っおれ、責任とります!」

 鼻を啜りながら言うと、後ろで見守っていた高頭が「は!?」と声をあげた。牧は感情の読めない顔で清田を見ている。その視線を受け止めながら、清田は「だって」と涙声を出した。

「Ωの人とつがいになったら、結婚するって決めてたんです、オレ」

 牧の手を両手で握り込みながら、真っ直ぐに見上げた。番にしてしまったΩとして牧を見ると、なんだか急に胸がドキドキしてくる。

 牧は数秒ほど言葉を失ったような様子になり、やがて高頭の方に首を回していた。あれ、なんか空気が変だなと清田が思っていると、何やら牧と高頭はアイコンタクトをして、一つ頷いた。

 牧の手が優しく清田のそれを握り返してくれる。清田は「う……?」と戸惑った声をあげた。何やら、牧が触れたところからどんどん身体が熱くなっていく。

「清田」

 牧に名前を呼ばれて、口元がフニャフニャになりながら、「ふぁい」と返事をした。

「オレとお前は、番にはなってない」

 そう言って、牧は苦笑いをした。

 

 清田は落ち込んでいた。

 前後不覚のまま高頭に自宅まで送ってもらい、事情を聞いて青褪める母親が高頭と話しているのにも構えないまま、自室のベッドに突っ伏した。起きた出来事に対する落ち込みではない。自分自身への失望による落ち込みだった。

 つまり、牧の話す「事故」の内容はこうだった。

 あの後、牧を背後から組み敷いた清田は、確かに牧の身体を暴いたらしい。実は、丁度ヒートに入っていた牧は、今日は病院で検診を受けていたのだという。新しい抑制剤に変えることになっていたので、改めて診察を受けてから処方してもらい、部活は休む予定ではあったが後半少しくらいなら構わないだろうと、更衣室でジャージに着替えていた。そこに現れたのが、早めに上がることになった清田だったのである。

 牧は「犬に噛まれたようなもの」と言っていたが、清田は徐々に思い出される記憶に頭を抱えていた。床に後ろから抑え込んだ牧のジャージを剥ぎ取って、その身体に手を這わせた。それから、ヒートのために泥濘んでいたそこに指を突き入れて、大して慣らしもしないうちに自分の熱で貫いた。

「うう……っ」

 正直、だんだん思い出してきた記憶の中の牧は色っぽくて、清田の動きに耐えるように丸められる背中の筋肉も、首の周りを舐める度に怯えたように震える肩も、何もかもが魅力的だった。それが、果たしてヒートにあてられたαの本能による感想なのかどうかは、もう清田には分からなかった。

 しかし、である。

「お前、噛むの失敗したんだよ。歯を立ててすぐに気絶してたからな。番になった感覚、しないだろ?」

 優しい声で言って、牧は清田の頭を撫でてきた。呆けた清田に苦笑いを向けながら、「だから、気にするな」と言われた。

 気にしますよ。

 清田は落ち込んだ。番になっていなかったことに安心しつつも、噛むのに失敗したという事実に自分の中のα性が多大にダメージを受けていた。そんなことあるのか。あるんだよなあ、今起きてるから。

「はああ……情けねー」

 やっぱり、αとしては駄目なんだな、自分は。そんなことを思いながら、身体を転がして自室の天井を見上げた。

 でも、と思う。初めて嗅ぎ取れたΩのフェロモンに、まだ心臓はドキドキと速めの鼓動を打っていた。あれがΩのフェロモンかあ、とうっとりしては、牧の苦笑いが頭の中に蘇る。

「牧さん、身体大丈夫かな……」

 噛むのを失敗したと言われて真っ白になった清田に、牧は再度「気にするな」と言って帰っていった。

 本当に気にしてないのかな、牧さん。ちょっとくらいは、なんか思ったりしなかったのかな。

 そんなことを考えてしまう。清田の心臓は、相変わらずおかしくなったままだった。

 

 

「Ωのニオイ?」

 清田が再びバース性と向き合うことになったのは、IHの少し前のことだった。たまたま出くわした湘北高校の桜木花道を連れて名古屋まで向かう新幹線の中、牧が手洗いに立ったところで、そういう話題になった。

 大変不本意ではあるが、予想通りに桜木はαで、恐らくは清田よりもαとしての力は強い。無論、バスケで負けるつもりは微塵も無いのだが。

 清田がΩの匂いって本当に凄いよな、というようなことを言ったところ、桜木が妙な顔をした。何やら気不味そうに、かつ尻の据わりが悪そうな様子で、「むー」と唸っている。なんだこいつ急に、と清田が訝しげにしていると、桜木はひらひらと手を振って何かを追い払うような仕草をした。

「苦手な匂いが多いんだよな。甘ったるい花の匂いとか、菓子の匂いとか。前に嗅いだのでトイレの芳香剤を百倍くらい濃くしたようなのがあって、流石に鼻が曲がるかと思ったぜ」

 桜木がボソボソと言う。Ωを悪く言うのは憚られながらも、余程苦手な匂いだったのだろう、というのが分かる表情だった。しかし、清田は別の意味で「えっ?」となっていた。

 甘い匂い?

「Ωって、甘い匂いがするのか?」

「あ?」

 思わず訊ねてしまうと、今度は桜木が訝しげに首を傾げた。

「甘い匂いだからΩだって分かるんだろうが」

「え、いや、でも……」

「なんだあ?野猿おめーまさか甘いΩの匂い嗅いだことねえのか?」

 図星を突かれて、清田は口籠った。まさか、でも、確かにあの時の匂いは、牧が発していた匂いは清田にとっては何よりも芳しくて魅力的だったのだ。

「Ωがなんだって?」

 ハッと意識を戻された。我に返った清田を一瞥した牧が、通路を挟んだシートに座る。バース性の話をしていたのが何だか気恥ずかしくて、清田は「いや、なんでも」と首を横に振ったが、隣に座る桜木が「じいよ」と相変わらず失礼な呼び方で牧に言う。

「あとどのくらいで着く?」

「もう三十分程度だが」

 時計を見ながら牧が答えると、桜木は腕組みをしながら声を潜めた。

「この車両の後ろの方にΩがいる」

「え!?」

 思わず視線を後ろに向けた清田だったが、やはり何も感じ取れなかった。牧が桜木を真剣な顔で見ている。

「多分、ヒートに入りかけてるぞ。車掌を呼んだ方が良い」

「何故わかる?」

「なんでもだ」

 桜木は眉を寄せながら言った。何やら嫌そうな顔で、「くせえ」と呟く。鼻が良いというよりは、Ωのフェロモンに過敏なところがあるのかもしれないと清田は思った。

「あ、オレ呼んできます!」

「待て清田」

 立ち上がった清田を、牧が止める。

「オレが行く。お前は桜木や他の乗客が暴走しないよう見ててくれ」

「え……」

 清田が戸惑った声をあげた横で、桜木が憤慨したように「じい!」と喚く。

「この天才が暴走するわけがなかろう!」

「どうだか。清田、頼んだぞ」

「あ、牧さ……」

 牧が颯爽とパーサーに声を掛けに行ってしまったので、清田はしおしおとしながら背もたれに背を預けることしかできない。横で未だ喚く桜木がうるさくて、「キーキー赤毛猿」と悪態をついたが、その声もどこか鈍かった。

 あーあ。

 牧は知っている。清田がαの出来損ないであることを。隣で「本当にくせえ」と失礼なことを言い続けている有能なαを見ながら、大きな溜め息を吐いた。

 

 結局、ヒート騒ぎは牧が連れてきたパーサーによって、急病人扱いということで救護され事なきを得た。残って他のαを見張った清田を牧が褒めてくれたが、あまり嬉しくはなかった。

 それから、愛知予選を観て色々と考えたりしているうちに、そのモヤモヤは少しずつ薄れていって、神奈川に戻る頃にはなんとか平常通りの精神状態に戻すことができた。桜木と駅で別れて、牧と二人で寮までの道を歩く。

 あーあ。

 二人きりになった途端、薄れていたはずのモヤモヤが顔を覗かせた。清田にとって、Ωの匂いはあの時の牧のカレーの匂いだけで、桜木があんなにも顔を顰めるほどの匂いすら、嗅ぎ取ることができない。きっと、Ωからしたらこんなαはダサくて格好悪いんだろうな、なんて考えては、また落ち込む。

「おい」

 不意に、牧が足を止めた。倣って清田も立ち止まると、大きな手が伸びてきて、髪を掻き混ぜられた。

「何を落ち込んでる?」

 牧さんって、本当に周りをよく見てるよなあ。

 清田は眉を下げながら牧を見上げた。牧が目元をほんの少し動かしたが、視線は清田に心の中を話すよう促していた。

「やっぱり、牧さんも桜木みたいな強いαの方が良いですよね」

 自分で言いながらさらに落ち込む。強いαはΩだけでなくβからも好かれるし、恋愛が絡まなくとも多くの人間に愛される。

 普段はそんなこと気にしていないつもりなのに、牧の前では調子が狂ってしまう。見上げた先の牧は、感情の読めない顔をしていた。一瞬の沈黙の後、「清田」と呼ばれる。

「お前は、オレのフェロモンを嗅ぎ取れただろう?」

「へ?」

 目を丸くする清田に、牧はおかしげな笑みを見せた。普段はかなり大人びている顔が、少しだけ幼気に見えて、清田は心臓が跳ねたような気がした。

「桜木は気付かなかったな。フェロモン値の高いαでも嗅ぎ取れなかったものを、お前は嗅ぎ取った。それには価値が無いか?」

 ふわぁ、と肺の中の空気が優しく抜かれたような心地になった。余計な力が抜けて、視界がキラキラと明度を増す。

「難しいことを考えるな。お前には向いてない」

 からかうように言いながら背を向けて、牧はさっさと先に進んでいく。その背中をしばし見つめてから、清田は駆け出した。

 

 

「あの時から、好きです」

 まだ海からの風は冷たくて、鼻の頭がジンとかじかむ。春の芽吹きを感じる三月、海南大附属高校の卒業式に、清田は牧を呼び出した。

 老け顔だのなんだの言われていたが、それでも牧は端正な顔立ちをしていて優しいから、沢山の人に囲まれていたり、何人かに呼び止められては何かを話していたりしていた。それらを遠目に見ていた清田は、数日前から牧にお願いをして卒業式の日に時間をもらった。

 今日は練習も休みなので、大学部棟へ向かう校舎裏で牧を待った。心臓はドキドキと早い音を鳴らしていたが、心はどこか澄んだように静かだった。

「清田」

 低い声に呼ばれて、振り返る。清田の顔を見た牧は、驚いた顔をしていた。

「いつから待ってた?」

「えっ?」

 焦ったように近付いてきた牧が、自分のマフラーを清田の首に巻いてくる。確かにまだ潮風が冷たい季節ではあるが、こんな風に心配されるとは思っていなかった。不意に牧の匂いに包まれて、口の中に唾液が溢れる。相変わらず、清田にとって牧のフェロモンは世界で一番好きな匂いだった。

 マフラーに埋もれながら、「牧さん」と呼ぶ。

「オレ、牧さんが好きです」

 ゴチャゴチャ考えるのは性に合わなかった。とにかく、自分の気持ちを伝えなければと思った。

「牧さんは忘れろって言ったけど、でも、オレはあの時から、好きです」

 牧は静かな目をしていた。ジッと清田を見つめていたかと思えば、不意に合点がいったというように手を打った。えっ、と戸惑う清田に、「そうかお前」と言ってくる。

「食欲と性欲の区別がついてないな?」

「……は?」

 何を言ってるんだこの人?

 牧の言葉を脳内で十回くらいリピートしてみたが、微塵も理解できなかった。しかし、目の前の牧はしきりに頷きながら、半ば憐れみの籠もったような目で清田を見てくる。

 どういうことだ?と目を白黒させていると、牧がまるで諭すような声音で続ける。

「清田、無理にΩを選ぼうとしなくて良いんだ。αだからといって、必ずしもΩと一緒になったり、番ったりする必要はない。保体や道徳の授業でも習っただろう?」

「いや、ちが……」

「ましてや、オレとのことは事故だ。責任も感じることはない」

 優しく肩を叩かれる。清田は愕然とした。

 あれ、もしかして、牧さんってなんか――

 そんなことを考えているうちに、牧は「また練習でな」と言って去っていった。確かに、数日後にも大学部との合同練習があるけれども。卒業すると言っても、牧は相変わらず海南にいるのだけれども。

 ジワジワと涙目になりながら、牧が巻いてくれたマフラーに顔を埋めて、清田は「牧さんって変」と情けない声を出した。

 

「だははは!」

「いや、三井さん笑いすぎですよ。清田が可哀想ですって」

 豪快に大笑いする、もうすぐ海南大に入学する予定の男こと、三井寿を清田は恨めしそうに見やった。その隣で三井を宥める神宗一郎も、普通に口元がニヤけているので全く説得力が無かった。清田は拗ねた。

「おい、拗ねんな拗ねんな!それにしても牧のヤツ、可愛い後輩の勇気振り絞った告白を天然でスルーするとか、どうなってんだあの頭の中?」

 三井がまだ笑いを堪えきれないまま言うのに対して、清田は「それはそう」と頷いた。まさか、本気に取られないとは思いもしなかったのだ。その上、何か勘違いをされている気すらする。

「お前の話を聞く限り、牧さんはバース性に関わる悩みの延長線上で、お前がそういうことを言ったと思ってそうだよな」

「そうなんスよ……」

 神が冷静に分析する。清田は口を尖らせながら頷いた。なんだか分からないが、牧は自分が清田の告白の対象になっていることを、全く本気に捉えていなかった。

 ちなみに現在は練習の合間の休憩時間で、牧は監督に呼ばれて体育館にいない。チャンスとばかりに神に相談していたところ、近くにいた三井に聞き咎められて、爆笑されたというわけである。

「やっぱ、オレのことαとして見てくれてないんだろうな……それ抜きにしたらオレなんてただの後輩としか思ってないだろうし」

「え、なんだお前ウジウジして。気持ち悪いぞ」

「三井さん、清田は確かに猿ですけど、多分三井さんよりは繊細なので優しくしてやってください」

「あれ?さり気なくオレのこと馬鹿にしてね?」

 三井と神の緩い会話をBGMに、清田は溜め息を吐いて膝を抱えた。

 結局、清田の告白を華麗に流した牧は、今日の練習で顔を合わせた際も全く普段通りの様子だった。

「食欲と性欲の区別がついてない、ねえ」

 三井がドリンクを飲みつつ言う。そういえば、と清田は思う。大学の練習に参加することになった三井は、自分がΩであることを全員に告げたのだった。後日、合同練習に来た高等部の面々にもそれは通達されて、「牧さんみたいなのが増えた」とみんなで驚いていた。

 清田は、牧と似ているΩに訊ねてみることにした。

「やっぱ、三井さんも弱いαは無理ッスか?」

「あ?」

 三井が訝しげに片眉を上げる。清田は膝を抱えたまま、視線だけで三井を見上げた。

「Ωの人って、やっぱ強くて優秀なαの方が好きなんじゃないんスか?」

「んー。オレのαも別にαとしては強くねえしなあ」

 沈黙が降りた。清田と神だけでなく、全部員の視線が三井に向けられる。全員漏れなく清田の恋愛相談を生温く見守っていたのだろうが、三井の投下した爆弾によって、一気に空気が変わった。

「えっ⁉三井さんってαいるんスか⁉」

「あ?おう。……あ、これ言っちゃ駄目なやつだったかな」

 まー、いっか。

 ボリボリと頭を掻きながら言う三井は、どこまでもあっけらかんとしている。清田は「えええ?」と声をあげた。

「三井さんみたいなΩを選ぶαって、どんな物好きなんスか?めっちゃ屈強な女の人とかですか?」

「どういう意味だよ。女じゃねーし」

「女じゃないの⁉」

 驚愕して自分の相談どころではなくなった清田は、三井を質問攻めしようと身を乗り出したのだが、その襟首を後ろから掴んで引っ張られた。「うえ!?」と仰け反ったまま見上げると、そこには牧がいた。

「バースに関わる話を根掘り葉掘り聞くのはやめろ」

 低い声で言われて、清田は「ふぁい……」と落ち込んだ。神が気の毒そうに見てきて、三井は腕組みをしながら「おい、牧」と何やら説教でもするような面持ちで言う。

 待て、何を言う気だこの人。清田は慌てて体勢を元に戻したが、三井は止まらない。

「お前、可愛い後輩の勇気を台無しにした上、そんなおっかねー声で叱ってやるなよ」

「……勇気?」

「清田の気持ちも考えろってことだよ。確かにおもしれー話ではあったけど、悩んで練習に支障が出るんじゃ駄目だろ。あとそろそろ飽きてきた」

「三井さん、最後の本音が全部台無しにしてます」

 どこまでも傍若無人を貫く男、三井寿に清田はいっそ尊敬の念すら抱きかけていた。どういうことだ、人の相談をあんなに笑ってたのに既に飽きてきてるとは。神の冷静なツッコミに全部員が頷いていた。

 牧は、そんな三井を少しばかり見つめてから、何やらその耳元で囁いた。三井が変な顔をして、清田に視線を向けてくる。首を傾げる清田をジッと見ていた三井は、急に真面目な顔になったと思うと、牧の背中をバシバシと叩きだした。

「なに……?」

「んー」

 急に二人の空気を作り出した牧と三井に、清田はしどろもどろになったのだが、神は何か察したように顎に手を当てていた。そのまま、牧と三井は大学部の先輩達の方へ向かってしまったので、清田は呆然と見送ることしかできない。

 隣で思案していた神が、「清田」と言う。

「もしかしたら、お前が思うほど悲観的な話じゃないのかもしれないぞ」

「どういう意味ッスか神さん?」

「時間が解決してくれるものもあるってこと」

「それって」

 清田は不貞腐れた。

「時間が経てばオレが諦めると思ってるってことですか?」

 清田の言に、神は呆れたように「そういうところがなあ」と返してきた。

「やっぱ、時間が解決してくれるのを待て」

「んぐぐ……神さんまで牧さんの味方に……!」

 何だか分からないが味方を失った清田は、歯噛みすることしかできなかった。

 

 

 そんな日のことを、思い出していた。

 目の前には、苦しげな呼吸をする想い人。相変わらず清田の想いには応えてくれていなくて、今日も一人暮らしの家に押し掛けた形だった。インターホンを鳴らすと返答が無く、「留守かな」と思いつつも、ドアの前の欄干に顎と腕を乗せて待つことにした。冬の寒さが、勝手に熱くなってしまう頬には丁度良かった。

 そこに、清田の想い人である牧は現れたのだが、様子がおかしかった。

「あ、牧さん!今日の練習昼からなんで遊びに来ちゃいまし……た!?」

 ぶわり、とフェロモンが襲いかかってくる。清田の前までやって来た牧は、日に焼けた肌でも分かるほどに頬を上気させて、呼吸も荒かった。清田の姿を見るや、慌てたように身を翻そうとして、バランスを崩して転びそうになる。咄嗟に腕を伸ばして支えた清田だったが、必然的に近くなった牧の身体から例の世界一美味しそうなカレーの匂いがして、口の中が唾液でいっぱいになる。

 違う違う、牧さん今キツイだろうから、部屋の中に連れてってやらないと。

 ブンブン、とフェロモンを振り払うように頭を振って、牧を支えつつ荷物から鍵を拝借してドアを開ける。なんとかワンルームの部屋のベッドまで連れていって、寝かせてやろうとしたところ、首元に腕をかけて引き寄せられた。当然転ぶ形になった清田は、牧の身体を組み敷いた。

「きよた」

 自分を呼ばう声は甘くて蕩けるようで、ゴクリ、と喉が鳴る。間近で見下ろした牧は、涙の膜が張った瞳で清田を見つめてきていた。

「牧、さん……きゅ、急にヒートになったんですか?」

 牧のヒートはいつも軽い。唯一、清田との「事故」が起きた時は例外だが、あれはどちらかというと初めてフェロモンを感じ取れるΩのヒートに出くわした清田が、無理矢理引き出したものに近い。

 清田の問いに、牧は「三井が」と言った。

「ヒートが治まらなくて……っ、まじない程度のつもりだったんだが」

「まじない?」

「Ωのヒートは、伝染る……よくΩの間で言う、根拠のない噂だ……っ」

 牧の身体が大きく戦慄いた。途端、より濃い匂いが立ち込めて、清田は必死で拳を握り締めて衝動を堪える。牧の荷物から抑制剤を取り出して、「飲みましょ」と起き上がらせたところで、ギュウっと抱き竦められた。

 耳元で、牧の苦しそうな吐息が繰り返される。

「帰れ……っまた、お前を巻き込んじまう……っ」

 清田は目を丸くした。牧は「また」と言った。それは、きっと二年前のあの日のことを指している。身体を少し離して、牧の顔を覗き込んだ。ヒートのせいだけでない、何か別の感情がその顔には浮かんでいて、ようやく今までの牧の言動に合点がいった。

 あの日、まだ清田は中学生だった。今だって牧より二歳も歳下ではあるけれど、高校生と中学生には、想像以上に大きな違いがあると牧は感じたのではないだろうか。そう、全ては――

「オレが、ガキだからですか」

 思ったよりも静かで低い声が出た。今まで意識しても出せなかったαの威嚇フェロモンが、勝手に漏れ出てしまう。牧の肩が震えた。決して怖がらせたいわけではなかったのだが、どうにも抑えが効かなかった。牧の肩を掴んで、真正面から見据える。

「オレ、確かにフェロモン弱いし、噛むの失敗するようなダサいαかもしれないけど、でも、そんなんどうでも良いんスよ」

 言いながら、涙腺が緩んでくる。

「今、目の前で好きな人が苦しんでるから、なんとかしたいって思ってるんです。Ωとかαとか抜きにして、牧さんのこと好きだから……っだから」

 とうとう決壊した目元をどうすることもできないまま、清田は何度も「牧さんが好き」と繰り返した。不意に伸びてきた牧の手が、その涙を拭う。

「清田。オレのフェロモンが分かるなら、何の匂いかも言えるな?」

「え?」

 泣き顔のままキョトンとする清田に、牧は自嘲するような笑みを見せた。自分の項をトントン、と叩きながら「こんな匂いは例が無いらしい」と言う。刺激によって拡散したフェロモンに、清田は喉を鳴らしながら必死に我慢した。

「妙な匂いだ。普段はまだ良いが、ヒートの度にαはこの匂いに晒されることになる。お前に耐えられるか?」

 口調はしっかりしているように見えて、牧の身体は弛緩していた。だいぶヒートが深くなってきているだろうに、まだ清田を遠ざけようとしている。清田は頬を膨らませた。

「耐えられるってなんですか!?オレにとってはこの匂いがΩの良い匂いなんですよ!」

「……良い匂い?」

「それに、カレー嫌いな日本人なんていないです!オレは毎日カレーでも良いくらいカレー好きですもん!!」

 身を乗り出して力説する。そんな清田をしばし目を丸くして見つめていた牧は、ややあってから、大きく吹き出した。

「ははは!」

「わ、笑うことないじゃないですか!オレ、本気ですからね!なんならこれから毎日カレー食べますし!」

「違う、バカにしてるわけじゃない」

 ベッドに横たわった牧が、手を伸ばして清田の頬を撫でてくる。

「良い男に捕まったもんだと思ってな」

 ふえ、と変な声が出た。清田の頬を撫でながら微笑む牧は、とんでもなく色っぽくて、それでいて幼気にも見えた。促されるまままに肘を折って、鼻先同士を擦りつけると、牧が目を閉じる。とんでもない緊張に襲われながら、なんとか角度を付けて唇を合わせた。

 うわ、なんだこれ。

 驚いてビクリ、と肩を跳ねさせながらも、清田はその柔らかく甘やかな感触に夢中になった。触れ合っているだけでも背筋がゾクゾクするくらいに気持ちが良い。牧の口が薄く開いた。誘われるように舌を差し入れてみたら、牧の喉から甘い音が漏れてきて、「エッロ……」と口には出さずに思う。

「うっ、ん、ふぁ……っ」

 清田のキスなど下手くそに違いないのだが、牧は感じ入ったような声を出しては、身体を小さく跳ねさせていた。流石に唇がジンジンしてきて顔を離すと、荒い息を吐き出した牧が「きよた」と舌っ足らずに呼んできた。

「ま、牧さん……ヒート辛いですか?」

「ん……っ大丈夫、だ」

 清田を見上げてくる牧は、普段の精悍さはすっかり鳴りを潜めていて、蕩けた瞳に清田を映していた。

 えー!なんかすげー可愛いんですけど!?

 言葉にならない胸の高鳴りに悶えながら、清田は落ち着こうと身体を起こして顔面を両手で覆った。日頃大人っぽくてしっかりしている人だからこそ、このギャップはくるものがあった。

「きよた」

「ま、待ってください、あの、このままだと暴走しそうで……っ」

「いい」

 ぐい、と腕を引かれて上体が前に倒れる。至近距離で見た牧の顔は、やはりトロトロに蕩けつつも、しっかりと清田を見据えてきていた。

「いい。お前なら」

 そんなことを言われたら、本当に我慢ができなくなる。清田はバチン、と自身の両頬を思いっ切り叩いてから、牧の肩を掴んだ。

「途中でやめるとか、無理ですからね」

 清田の切実な声に、牧は嬉しそうに笑っていた。

 

 番になるかどうかは今決められない。

 清田に身体を許してくれながらも、牧は言いにくそうに口にした。それには清田も同感だったので、絶対に噛まないと約束をして、真正面から抱き合った。日に焼けた牧の肌は、浮いた汗の玉すらいかがわしく見えて、清田は歯を食いしばりながら牧のナカを慣らした。

 初めての時は全くそんな気遣いもできなかったので、なんとしても牧に気持ち良くなってもらいたいのだ。そんな意気込みを感じ取っているのかは分からないが、牧は協力的に身体をひらいてくれた。

 くちゅり。三本目の指を呑み込んだ後孔が、蜜を溢れさせる。

 Ωって本当に濡れるんだ。意識的には童貞同然の清田は、人体の神秘に感動を覚えた。ヒートになった牧の肌はスベスベモチモチで気持ち良くて、それもまた清田に衝撃を与えていた。

 何故、二年前の自分はほとんど何も覚えていないのかと。朧気に牧を組み敷いて項を噛んだことしか思い出せていないので、いかに当時の自分が未熟なαだったかを思い知らされる。

「きよた……っも、いい」

 牧が甘やかな声と共に頭を撫でてくる。いつの間にか口内が唾液でいっぱいになっていて、慌てて飲み下した。万が一にも番わないよう、正面から牧の脚を抱え上げて、自身の切っ先をその泥濘に触れさせたところで、清田は堪らず腰を引いてしまった。

「ひっ、う……っま、まきさん」

 鼻水でグズグズの声が出て、情けないやらなんやらで涙目になりなが牧を呼ぶと、「仕方ないな」と言われた。牧の体が離れていく。待って、ちゃんとできます、と言おうとした途端、背中が柔らかな布団に触れた。

「次は、できるようになれよ?……っふ、ぅ」

「ひっ♡ま、まきしゃっあ、あ♡」

 くちゅ、と温かくて濡れたものに自分のペニスが包まれ、清田は喘ぎ声をあげた。見上げた先では、牧が不敵な笑みを浮かべている。視線を落とすと、牧のアナルが清田のそれをどんどん呑み込んでいっていた。

「あ♡あっ、あっ♡すご、きもちい♡です♡」

「どっちが抱いてるのか分からなくなる、な……っ」

 息を吐き出しながら、牧が清田の腰を掴んで角度を調整する。本当に、どちらが挿入している側か分からないような状態だった。牧が腰を揺する度に清田が喘ぎ、牧が淡く笑う。

「うう……っ♡ごめ、なさ…っおれ、あるふぁなのに……っ♡」

 ボロボロに泣きながら謝ると、牧は優しく笑った。上体を伸ばして、清田の首筋に噛み付いてくる。まるで、捕食するような動きをする牧が、やっぱり清田は好きだった。格好良くて、綺麗で、強いΩ。

「出して良いんだぞ?」

 耳元で囁かれて、ひくり、と尻が震えた。必死になって首を横に振りながら、なんとか腰を突き上げるような動きをすると、初めて牧の顔が乱れた。眉を寄せて、びくん、と体を丸める。正直なところ、もうすぐにでも出して楽になりたかったのだが、自分だけが気持ち良くなっても駄目なのだと、清田なりに色々な先輩に聞いたり雑誌で読んだりして学んだつもりだった。

 Ωを満足させないと、ヒートは辛いだけのものになってしまう。だから、αはΩに選ばれる。

 何かの雑誌で読んだ記事に書いてあった。その文言だけが頭の中をグルグルと巡って、清田はそれに縋るように身体を必死で動かした。今度は清田が牧の腰を掴んで、自分も腰を使って下から突く。牧が喉を晒して高い声をあげた。

「う、あ♡まきしゃ、きもちい?ですか?♡」

「こらっ……無理しなくていい!」

「むりじゃ、ないです♡はっ、はっ♡まきさんに、きもちよくなってもらいたいから……っ♡」

 とはいえ、そろそろ本当に限界だった。牧のナカはあまりにも気持ちが良くて、清田の熱を余すところなくしゃぶり尽くす勢いで絡みついては、優しく締め付けたりキツくなったりと、全力で甘やかしにかかってきていた。威勢のいいことを言っておいて、清田はグズグズの顔で牧を見上げた。

「まきさんのなか、きもちよくて♡もうおれっ♡」

「はっ、ぅ、馬鹿……っだから、出して良いと言ってるだろ」

 牧が覆い被さってくる。唇を塞がれて、性急に舌が絡んだ。水音を立てながら舌同士が擦り合わされて、外に引き出すようにしてしゃぶるような動きをされる。それから、また深く口吻られて、上顎を舐められる。

「んっ♡ふ、ぅ♡んっんっ、んん~~~!♡♡♡」

 キスをしながら、牧の後孔がキュウ、と清田を締め付けてきて、堪らず腰を押し付けるようにして達した。α特有の長い射精をしている間も、牧はキスをやめずに清田の口中を舐り続けた。唾液が口の端から漏れて、頬を伝って耳まで垂れた。ビクビク、と震えているのが自分の下半身なのか牧のそれなのか分からないまま、射精の快感で頭が蕩けていく。目の前の身体に縋るように、首に腕を回して抱き着いたところ、牧が一度口を離して覗き込んできた。

 いつもは精悍な顔が赤くなってトロトロになっていて、清田は「牧さんエロ……」と馬鹿になった頭で思った。首に回された清田の腕を横目に見た牧は、嬉しそうに笑ってから顔を傾けた。柔らかく唇が塞がれて、また舌が絡まる。まだ繋がったままの下半身が、キスの刺激でひくり、と跳ねていた。

「……うう」

 ようやく顔が離れて、牧が腰を持ち上げた頃、また清田は情けなさで泣いていた。気持ち良くて、恥ずかしくて、でも、嬉しくもあって、どうしたら良いか分からなかった。寝そべったままの体勢で泣き出した清田の頭を、隣に横たわった牧がわしゃわしゃと撫でてくれる。

「泣くな」

「だって……っ牧さん、絶対気持ち良くなかったですよね?オレばっか気持ち良くなって、こんなんα失格……っ」

 ひーん!と泣いていると、牧は気不味そうに視線を逸したが、すぐに何か腹を据えたような顔になって「清田」と呼んでくる。

「オレも気持ち良かった」

「うそですよ!だって、牧さん出してなかった!」

「……それは」

「い、今からでも牧さんのちんこ触って良いですか!?」

 がばり、と起き上がって牧の身体を転がすと、焦ったように「違う!」と言われた。何が違うのだと、清田は鼻水を啜りながら牧のペニスに触れようとした。

「ん?」

 牧のそこは、全く勃起していなかった。一気に青褪めながら顔を上げると、逆に牧は頬を染めていた。予想の範疇外の様子に、清田の股間の方がまた力を取り戻しそうになる。

「な、なんで……っやっぱり気持ち良くなかった、ですか?」

「違う。だから、その……Ωは、ヒート期間になるとあまり勃たなくなるんだ」

「へ?」

 ふにゃん、としたままの牧のそれに、視線で許可をもらってから触れてみる。αである自分のものと色も形も異なるが、確かにペニスであるはずのそれは、芯を持っていなかったし、射精をした様子も無かった。

 つまり、どういうことですか?

 そんな顔をしていたのか、牧が更に顔を赤くしながら、「だから」と言う。

「出さなくても、気持ち良くなれるんだよ」

「ひょえ」

「どんな声だそれは。いいか清田、Ωはヒート期間になると身体が変化する。ほら、肌もいつもと違うだろう」

「う、確かに牧さんのおっぱいすべすべもちもちでした……いでっ」

 躊躇なくゲンコツを落とされた。そういえば、さっきまでむせ返るほどに充満していたカレーの匂いが、だいぶ落ち着いている気がした。

「牧さん、ヒート終わりました?」

「普通のヒートとは違ったらしいな。ヒートが伝染るなんて、迷信だと思っていたが」

 大きな溜息を吐き出した牧が、清田に腕を伸ばしてくる。抱き竦められて、そのまま二人でベッドに倒れ込んだ。牧の鎖骨に鼻先を押し付けながら、清田は急激に多幸感でいっぱいになる。空腹を満たした直後のように、腹の真ん中が温かくてずっしりとした何かでいっぱいになっている心地だった。

 くん、と牧が清田の髪の匂いを嗅いで、「やっぱり」と呟いていたが、もうそれに反応することもできなくなっていた。抗えない睡魔に襲われて、それでも牧を見ていたくて、必死に瞼を持ち上げてその泣き黒子のある顔を見上げていると、優しく笑んだ牧が「寝ろ」と頭を撫でてくれる。その手があまりにも温かくて気持ち良くて、とうとう清田は意識を手放したのだった。

「産んだぞ」

 まるで買い出しをしてきた報告のような声音で言われて、牧は思わず携帯電話を取り落としかけた。慌てて持ち直したそれから、「遊び来いよ」と声が続く。流石に呆れながら、大きな溜息を吐いた。

「お前な、宮城から死にそうな声で連絡が来た身にもなれよ……!」

「悪い、アイツすげーオレのこと好きなんだよ。許してやってくれ」

「三日間なんの音沙汰も無いから、流石に心配したんだぞ!?」

「んふふ、牧がデレてる」

 電話口の三井は嬉しそうに笑っていた。男性Ωの出産は基本的に帝王切開になるのだが、三井は驚きの回復力で医者にも少し歩いて良いと許可をもらっているらしい。隣に宮城がいるのか、遠い声で「牧さんに謝っておいて」と聞こえてきた。

 身体から力が抜けて、牧はソファに座り込んだ。部屋の掃除をしていた清田が、何事かと近寄ってきたので、携帯電話に向けて「明日行く」と告げて通話を終わらせた。

 比較的試合数が落ち着いている今の時期に生まれてくるとは、出来るな三井の子、などと思いながら伸びをして、カレンダーを見やる。十一月の平日、予定通りに帝王切開となったらしいが、この世の終わりのような声で三井の番である宮城リョータから「オレはどうしたら」と電話が来た時は、本当にどうしてやろうかと思ったものだ。一連の流れを全て見ていた清田だけが、牧を労るように横から抱き着いてきて、「良かったっすね」と言う。確かに、無事に生まれて良かった。

「明日、練習前に見舞いに行こうかと思ってる。お前も来るか?」

「えっ!もう大丈夫なんですか?なんか帝王切開って大変なイメージが……」

「医者も大喜びの回復力らしい。子供の方も健康そのもので、まあなんというか、三井らしいな」

「ははは、三井さんってたまに人間離れしてますよね」

 身体を離した清田が、カウンターキッチンの方へ向かい、二人分のコーヒーを淹れてくれる。芳ばしい匂いにようやく落ち着きながら、牧は清田の背に向けて言う。

「お前も欲しいか?」

「へ?」

 コーヒー豆が挽かれる音に紛れて聞こえなかったのか、清田がキョトンとして振り返ってくる。淹れたてのコーヒーを手に戻ってきた清田がソファに沈んだところで、牧は静かに笑った。

「赤ん坊、欲しいか?」

 意外なことに、清田は落ち着いた表情のまま、牧を凝視していた。もっと大騒ぎするかと思っていたので、「おや?」と首を傾げると、昔より随分とガッシリとした腕が伸びてきて、牧の額に手を当てる。

「熱は無いですね?」

「失礼なヤツだな」

「だって、牧さんそういう話するの好きじゃないじゃん」

 手を離し、自分のコーヒーに口を付けながら清田が口を尖らせる。牧は、「確かに」と笑った。清田の淹れてくれたコーヒーには、牧のためにミルクが入れてあって、それにもまた笑いが零れた。

 大学卒業後、地方のチームに所属していた清田は今年になって関東のチームに移籍してきたばかりで、牧との暮らしもまだ数ヶ月といったところだ。もちろん、シーズンが始まってからは別のチームのため時間が合わないことも多い。だから、というわけではないが、牧は清田に確かめたくなっていた。

「もー、三井さんズルいよなあ。大学出てからもずっと牧さんと同じチームとか、オレからしたら世界一羨ましいのに」

 不意に、清田がムスッとして言う。

「ずっと一緒だから、こうやって牧さんに色んなこと考えさせちゃうし」

 マグカップを啜ったまま、清田がいたずらっぽく牧を見てくる。牧は一度、瞬きをした。それから、昔よりさらに長くなった清田の黒い髪に、手を伸ばす。サラサラとそれを梳いてやりながら、そうか、らしくなかったな、と思った。

「産みたいわけじゃない」

「でしょーね」

「ただ、少し考えた」

「うん」

 清田が笑う。髪を梳く牧の手に甘えるように擦り寄ってきて、やがて二人分のマグカップはテーブルに並んで置かれてしまった。

「三井さんは三井さん、牧さんは牧さんでしょ?」

 清田がとろり、とした笑みで言うものだから、牧は思わず頷いた。なんだか、子供が大人になったことを実感した親のような気持ちになって、感心しながらその頭を撫でたところ、「え、急に子供扱い!?」と騒ぎ出して台無しだった。コーヒーの匂いに包まれたリビングで、ぼんやりと天井を見上げる。

「夕飯、カレーにするか」

「良いですね!タンパク質ゴリゴリに摂れるやつ作りましょ」

 清田が笑う。それを見ていると、一瞬前のらしくない自分はすっかりどこかへ行って、いつも通りの年上の自分が戻ってきた気がした。テーブルのマグカップに手を伸ばして、冷めてきたコーヒーを一気に飲み干した。

 

 

 初めてだった。

 きっと、本来休むべき日に、少しくらいならと考えたのが悪かったのだ。いつも通りに着替えるため、更衣室で練習着に替えたところで、嗅ぎ慣れない匂いを感じた。

「お前……」

 更衣室に入ってきたのは、新年度から海南へ入る予定の、清田信長だった。そういえば、今日から練習に参加するのだったか、と思い当たる。しかし、相変わらず例の匂いは消えず、それどころか濃くなった気すらした。

 独特の鼻に抜けるような刺激的な匂い。不快ではない、どちらかといえば、鼻を寄せたくなるような、そう、スパイスのような。

 そこまで考えたところで、いきなり視界が反転した。辛うじて受け身を取ったが、正面からのしかかられて身動ぎができなくなる。

「まさか、お前……っ」

 ぶわり、とフェロモンが広がる。それがαの威嚇フェロモンだと気付いた時には、もう手遅れだった。変えたばかりの抑制剤は、より副作用を抑えることに特化したもので、通常の抑制剤より薬効が弱い。まさか、自分が反応する、自分に反応するαが存在するなど思ってもいなかった牧にも、流石に怯えが走る。

 首元に顔を寄せた清田が、うっとりと言う。

「牧さん、いい匂い……」

 それは、大きな衝撃だった。これまでの人生で最も驚きをもたらし、そして、途轍もない喜びを牧に与えた一言だった。

 その歓喜と衝撃を、牧は今も忘れられずにいる。

 友人であり腐れ縁のチームメイトでもある、三井の結婚式の前日のことだ。結婚相手である宮城にαを中心とした集まりをしたいと言われたとのことで、「オレらはΩだけで集まろうぜ」と三井は楽しげな声で牧ともう一人のΩである深津一成に連絡をしてきた。

 会場となる沖縄のホテルの広めの部屋で、Ωだけで泊まるのだと張り切っていた三井は、何故か山盛りの日本食を用意していた。それも、後から合流したΩの王様こと流川楓の存在で納得することになる。

 そんな流川が、何やらジーッと牧を見つめてきていた。アルコールが飲めない三井の目の前で躊躇無くシークワーサーサワーを飲んで怒られながら、流川は牧を見てくる。

「なんだ、流川?」

「ん」

 問い掛けると、授業を受ける生徒のように手を挙げてきた。横から三井が「はい、流川くん」と教師のように指す。流川は、こくり、と頷いた。コートの中では鬼神のようだが、バスケをしていない流川はマイペースでのんびりした男だった。

「牧さんのα、匂い強くなってるっすか?」

 牧は目を見開いた。

「……清田は宮城と同じタイプだピョン?」

 深津が牧と三井に向けて言う。硬直している牧の代わりに、三井が頷いた。

「まあ、清田とうちのは方向性が違う感じするけど」

「キャプテンは、守るα。牧さんのαは」

 流川がサワーを呷りつつ言う。

「多分、まだ成長途中?」

「なんだそりゃ」

 三井が気の抜けたように言うのに対して、流川は欠伸をしながらその膝に頭を乗せた。

「おい、寝るならベッド行け。そのために四人部屋取ってんだからよ」

「先輩、落ち着く匂いする」

 流川がマイペースに言いながら、牧を見上げてくる。ようやくマトモな呼吸のできた牧に、その目は「図星だろ?」と語りかけてきていた。

「流川」

「ん」

 牧の声掛けに、流川はぼんやりした顔で首を動かした。三井の太腿がゴリゴリして居心地が悪いのか、のそり、とラグに頭を落としてから、手で支えるようにして寝そべる。その目は、見透かすように見えて、どこか優しげな色をしていた。

「強くなってるのは、清田だけじゃない」

「そっすね」

 流川はさもありなん、という顔で頷いていた。分かっていてあえて言わない選択をした辺り、Ωの王様というのは伊達ではないらしい。

 三井と深津のキョトン顔の視線を横っ面に感じつつ、牧はソファに深く身を預けた。

「フェロモンが強くなってるのは、オレもなんだ」

 口に出してみたら、それは思ったよりも軽い音になって消えた。

 

「ヒートが重くなってきてる?」

 ソファの隣に詰め寄ってきた三井が、心配そうに言う。身重の人間に余計な心労をかけたくないと、牧は掌をヒラヒラさせて「深刻になるな」と言った。

 ここ二年くらいで、急にフェロモン値が上昇傾向になった。主治医には健康的には問題が無いと言われていたが、やはり気になるのはスポーツ選手としてのケアの観点だった。

 特に珍しいことではないらしい。加齢や体質の変化でフェロモン値が上下することは、理論的にも普通のことであるし、特に男性のΩはそのどちらも起こる可能性が高い傾向にあるとも。

「今のところは、運動能力に変化は無いが」

 牧が静かな声で言うと、深津が首を傾げる。

「じゃあ、なんでそんなに微妙な顔してるピョン?」

「それは……」

 そう、牧がフェロモン値の上昇に悩むのには、理由があった。Ω初心者の深津は常の真顔の端々に「自分にも起こるかも」を滲ませていて、申し訳ないなと思う。ちなみに、三井は唐揚げをモリモリ食べていたし、流川は三つ目のおにぎりに手を伸ばしていた。これだから湘北は、と牧は脳内で呆れた。

 ようするに、と咳払いをする。真剣な目の深津に、さらに謝りたくなる。

「セックスが、激しくなっててな……」

 言ってから、完全にフリーズしている深津に再度頭の中で謝罪した。三井が噴き出すモーションに入っていて、流川が「ほー」という顔をする。

 本当に、言わなきゃ良かった。

 牧は後悔した。

 

 つまり、である。

 フェロモン値の上昇に気付く少し前から、なんとなく感じてはいたことだった。とはいえ、地方のチームで物理的に離れているαとの久しぶりの逢瀬に、過敏になっているだけだとも思っていたのだ。

 しかし、今回のオフシーズンで関東のチームへの移籍が決まった清田と同居を始めてから、それは気のせいではなかったと気付くことになる。

「……二週間前のヒートの時に、死ぬ思いをした」

「……ピョン」

 怯えきった深津が青い顔で離れていく。三井は笑いすぎでテーブルに突っ伏していて、流川は四つ目のおにぎりに手を伸ばしていた。これだから湘北は、と牧はイライラした。

「つ、つまり……っ」

 三井が涙目になりながら顔を上げた。流石に笑いすぎだと、その額を指で弾く。

「ヤりすぎで死にかけたってことかよ?ぶふっ」

「お前、そろそろ怒るぞ」

「悪かったって。はー……そんなことあるのかよ。お前んとこも結構淡白だって言ってたのになあ」

 牧は大きく溜め息を吐き出した。より深くソファに沈んで、あの日のことを思い出す。

 久しぶりに一緒にヒート期間を過ごすということで、確かに清田は張り切っていた。番っていないので、離れている間は不安だったのだろうな、とは思っていたが、まさかあんなことになるとは。

「そんなにぃ?」

「牧お前、凄い顔してるピョン」

 回想をして遠い目をする牧に、三井と深津が生温い視線を向けてくる。牧は二人にデコピンをした。

「お前ら、起きたら全身に噛み痕があった時の気持ちが分かるか?」

「あっ、そういう……?」

「むしろ、よく項を噛まれなかったピョン……」

「そこは躾の賜物だな」

「お前と清田って飼い主と犬なん?」

 好き勝手言うのを半ば無視しながら、もう一度溜め息を吐き出した。毎回あんなことになったのでは、堪ったものではない。抑制剤をまた強いものに変えるか、と思考をし始めたところで、おにぎりを咀嚼し終えた流川が挙手をした。

 なんの挙手なんだそれは、と牧が眉を持ち上げているうちに、三井が「はい、流川くん」と同じように促す。流川は、こくり、と頷いた。

「強くなってきたなら、いけるとこまでいった方が良いっす」

「セックスで?」

「先輩、ちょっと黙ってて」

 流川が三井の口に唐揚げを突っ込んだ。

 改めて牧に向き直って、流川は「牧さん」と言う。

「多分、アンタもアンタのαも、自覚が薄かっただけ」

「どういう意味だ?」

「アンタも、王様なのかも」

 いや、帝王だっけ?

 牧は目を丸くした。流川は、眠そうだった目に鋭い光を湛えて、牧をジッと見つめてくる。

「抑えなくて良いと思うッス。その方が、バスケ続けられるし」

「お前はそればっかだな」

 流川の言に、三井が笑う。深津の方を見ると、何やら考え込んでいたようだったが、すぐに「つまり」と言って牧に視線を向けてきた。

「お前達のフェロモン上昇は、突発的なものじゃないってことかもしれないピョン。例えば、お互いがお互いのフェロモン値を上昇させてるとか」

「それ、言いたかった。頭良いっすね」

 流川がホクホク顔で言う。深津は複雑そうな顔で流川と牧を交互に見ては、同情するように牧の肩を叩いてくる。

「多分、最初から決まってたんじゃないすか」

 たくあんをボリボリさせながら言って、流川はもう牧から興味を失ったように、料理に向き合っていた。

「流川……」

 やはり、色々と整理のつかない牧が問いを続けようとすると、流川は口元だけで笑んでみせた。その顔が、あまりにも何もかもを確信している様子に見えて、牧は言葉を失う。

「強い奴が増えるのは、悪くないっす」

 そんなことを宣って、流川はテーブルに頭から寝落ちした。

 

 

 酒に弱い流川のことを、食後に清田が「ちょっとだけ!」と出してきたブランデーを見ながら思い出していた。あの日から半年弱。とうとう、フェロモン値はΩの平均値を優に超えてしまっていた。

 同じくフェロモン増加傾向にある清田も一緒に病院に通い、医師と相談を続けていた。当初は予想以上に速いフェロモン値の増加度合いに首を傾げていた医師も、世界中の症例を調べたとのことで、「本当に珍しいですよ」と二人に説明をしてくれた。

 つまり、牧と清田は「運命の番」だったのである。

 とはいえ、一般的に言われている「運命の番」が主にフェロモンの相性の良さを判断材料にしているのに対して、牧と清田はその括りとはまた違うところにいた。

「要するに、フェロモンの型がピッタリハマってるんです。ただの相性ではなく、とんでもない低確率で起こり得る、遺伝子的な相性です」

 何やら小難しい説明をその後もされたが、ポカン、とした清田の目がぐるぐるしだしていたので、「その辺りで大丈夫です」と興奮する医師を宥めた。

 その帰り道、清田は真っ赤な頬を隠せないまま、牧の手をギュウっと握ってきた。しきりに、「嬉しいです」と繰り返していて、改めて、良い男に捕まったものだと牧はしみじみ思った。

「へへ、三井さんの赤ちゃん楽しみですね!」

 明日の予定を確認しながら、清田が笑う。ブランデーのグラスをゆらゆらとさせて、牧はそんな横顔を見つめた。

 あの日、海南の更衣室で鉢合わせた時、恐らく牧と清田はお互いにお互いのフェロモンを爆発的に引き出したのだろう。牧のヒートは急激に温度を増し、清田はラット状態になった。

 しかし、番にはならなかった。

 実のところ、清田から項に歯を立てられた時、牧は覚悟を決めていたのだ。清田がどう思うかは分からないが、責任を取ろうと。ところが、事が終わってみても番になったとは思えず、項の傷痕も直に消えてしまった。

「……?」

 そこまで考えて、牧は動きを止めた。グラスを置いて、清田のニットの襟口を掴みながら、その首筋に鼻を寄せる。なに?え?とワタワタするのを抑えながら、嗅ぎ慣れたはずのフェロモンをいっぱいに吸い込む。

 その途端に気が付いた。

「……番えてたのか?」

「へ?」

 元々、牧のフェロモンは変わった匂いなので、大抵のαには気付かれなかった。しかし、そうだとしても、牧は他のαの匂いを感じ取れるはずだ。そんな当然のことを、「フェロモンが弱いから」と思い込んでいたことで、見落としていた。

 あの日から、牧は他のαの匂いを嗅いだ記憶が無かった。

「……っ!!!」

 一気に体温が上がる。何かがおかしいと、頭で理解するより先に身体が訴えていた。目の前の清田も驚いた顔をしていて、急激に様子が変わった牧を慌てて支えてくる。その腕が、腰に回った途端、牧は全身を震わせて達した。

「……っひ、あっ♡あ、あっ♡」

「牧さん!?ちょ、なんかすげーフェロモンが……!!」

 ヒートだ、と頭の片隅で思いながら、清田の身体に縋り付くことしかできなかった。ジクジクと項が火傷のように熱くなって、堪らず身体を丸めて感覚を逃がそうとする。覗き込んできた清田が、「えっ!?」と声をあげた。

「ま、牧さん……っうなじに、噛み痕が……なんで」

 荒い息を吐きながら、自分の項に触れた。確かに何も無かったはずのそこが、古傷のように皮膚が盛り上がって、熱を持っていた。

 これは、過去が追いついてきたのか。迂闊だった自分と、未熟だった自分のαの、過去が。

「……んで」

 思考がまとまらない牧を抱えた清田が、ボソリと呟いた。なんとか説明しなければと顔を上げた途端、身体を反転させられてソファに組み敷かれた。背中から伸し掛かってきた清田は、低い声で「なんでですか」と唸っていた。その声に、牧の肚がずくり、と疼く。これはまるで、あの日の再現だ。

「なんで噛み痕があるんですか?誰に噛まれたの?……やっぱりオレが、出来損ないのαだから……っ!!」

「ちがう……っ」

 熱でブレる視界の中、必死に首を回して清田を呼んだ。違う、お前は出来損ないじゃない。むしろ、足りなかったのは――

 清田が力無く牧の背中に顔を埋めた。漏れてくるのは嗚咽と、哀れなほどに濡れた謝罪の声だった。

「ごめんなさい……っでも、おれ……まきさんとつがいたかった……っ」

 牧は死ぬ気で身体を動かし、清田を抱き締めた。長い髪から漂う香りは相変わらず、本人の性質と正反対に官能的なもので、全身がその匂いに愛撫されているような錯覚さえ覚えた。

 腕の中で泣く清田に、牧は上擦る声で言う。今やっと分かった、自分達のどうしようもない事実を。

「清田、落ち着いて聞け」

「……っや、ヤです!別れたくないです!」

「違う、聞け!」

 荒い息を吐き出して、牧は清田の頬をパチン、と両手で挟み込んだ。涙と鼻水でベチャベチャになった顔が、あまりにも可哀想で愛おしくて、思わず眉が寄る。項も限界まで熱くなってきていて、そろそろマトモでいられる時間が短くなってきているのを感じた。

「オレの番は、お前だ」

「でも、おれ、噛むの失敗した……」

「ちがう、お前はちゃんと噛んでいた。オレの身体の方が、追いついていなかったんだ」

 清田は背景に宇宙を背負ったような顔で硬直していた。うん、と牧は頷いた。

 これは感覚的な、直感的なものだった。あの日、二人とも尋常ではない状態にあり、何が起きたのかは定かではない。だが、恐らく清田は牧の肚の中に精を注ぎ込んで項を噛んでいたのだ。そして、二人は確かに番っていた。

「オレの身体が、それを理解できなかったんだろう」

「さっぱりわかんないです」

「……っ、は……つまり、オレは番っていないと思い込むことで、番っていない状態を保っていただけで、本当は番っていた……っ」

 言いながら、かくり、と身体から力が抜けた。未だに理解が追い付いていない顔をしていた清田が、慌てて牧の背を支えた。再度ソファに押し倒されるような体勢になって、牧は熱っぽい目で清田を見上げた。同じ言葉を繰り返す。

「おれのつがいは、お前だ。信長」

 清田の頬が真っ赤に染まる。

「やっぱり、牧さんって変」

 

 目が覚めると、高く昇った陽の光が差し込んできていた。携帯電話を確認しようと伸ばした手に、骨っぽいそれが重ねられて、牧は喘いだ。まだ繋がったままのそこを、緩く突かれる。

「ぁ、やっ♡のぶ、なが……っ♡」

「はあ……っいつもエッチの時だけ名前で呼んでくれるの、すげー好きです」

 がぶり、と後ろから項を噛まれた。もう何度噛まれたか分からないが、清田がそこに触れる度に牧は絶頂する。

「だいじょぶ、さっき牧さんが飛んじゃった時に電話しておきました……っは、チームと、三井さんにもね」

「あ、あ♡」

 いつの間に移動したのかも、もう牧には思い出せないのだが、ベッドのシーツを握り締めながら、意味のない声をあげることしかできない。

 あの後、すっかり酷いヒートに陥ってしまった牧は、清田にドロドロに抱かれ続けていた。最初はそのままソファで繋がって、清田はナカに精を注ぎながら上書きするように牧の項を噛んだ。その頃には少しばかり状況を理解できてきたのか、「牧さんの匂い分かるから、やっぱオレが牧さんのαってこと?」と困惑と興奮が綯い交ぜになった声で呟いていた。その辺りまでは記憶がしっかりしているのだが、そこからは断片的だった。ここまでのヒートは初めてで、清田に与えられる快感を受け止めるので精一杯だったのである。

「早くヒート終わるように、いっぱいしましょうね♡」

 体位を変えて正常位で挿入れ直すと、清田はトロリとした目をしながら牧の頭を撫でた。覆い被さってくるその長い髪が、外界と牧を遮断してしまう。一度も言ったことは無いが、この光景が好きだった。多分、清田は分かっていて髪を伸ばし続けているのだろうが、こういう細かい点についてお互いに口には出さないまま理解しあっている辺り、やはり牧と清田はとっくに番になっていたのかもしれない。

「ちょっとだけ、腰上げますよ?」

「ひっ、や、のぶなが♡これ……っ♡」

 膝をグッと上体の方に持ち上げられて、必然的に腰も上向く。晒すようにされた後孔に、上から清田の熱が突き挿れられた。ペニスの裏側よりも先、ヒートで降りてきている子宮に届きそうなくらいに深く責められて、牧は過ぎた快感にボロボロと涙を零した。それを見た清田が、愛おしそうに呼んでくる。

「まきさん、きもちい?っは、う、番のエッチって……っすごい、ですね♡」

「あっ♡や、つよい……っ♡のぶながぁ……♡」

「かわい♡う……っはあ、すご、腰止まんね……っごめんなさい、まきさん……っ♡」

 絶頂が近付くにつれ、清田もいつものように喘ぎが漏れ出していて、それにまた煽られる。これも一度も言ったことが無いが、牧は最中の清田の声が好きだった。

 ぱちゅん、と強く突かれて、喉を晒して声をあげた。

 イク、だめ、もうイク、イってる。

 譫言のように繰り返しながら、肚の奥に精を注がれてさらに絶頂する。何度も達しながら、咥えこんだ清田のペニスに甘えるように絡みつくのを、牧にはもうどうすることもできない。ハアハア、と全力疾走した後のような息を吐きながら、清田は長い射精に耐えていた。αはαで大変なのだと、清田と交わるようになってから知った。

 繋がったまま、清田の背中に腕を回して引き寄せた。意図を察した清田が、疲労を滲ませた色っぽい顔で笑って、キスをくれる。また長い髪に世界から切り離されて、牧は恍惚としたままキスに没頭した。清田のスパイスにも似た匂いに包まれて、多幸感に満たされる。

 キスの合間に視線を合わせた清田が、口をもぞもぞさせて笑う。牧の頬を、すっかり丸みの無くなった手で包み込んで、「牧さん」と囁かれた。牧の項が、ずくり、と疼く。

「やっぱりオレ、毎日カレーが良いです」

 そんなことをあまりにも幸せそうに言うものだから、牧は堪らず吹き出した。

​END

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