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王様オメガとシロートアルファ

花流/Ωのフェロモンが強すぎる流とαとしての経験値が足りない花の話です。

「こんなに小さいうちにバース性が確定するのは珍しいです」

 神妙そうで、それでいて好奇心を隠しきれていない白衣の男の言葉を、母親の隣で聞いていた。文字通り、聞いていただけだ。

 幼い瞳の中に、「だからどうした」をめいっぱいに膨らませているのが伝わったのかどうかは知らないが、白衣の男は少しだけ口籠ってから、「お母さん」と母親の方へ意識を移した。

「楓君は、非常に稀な体質を持っています。成長するにつれ、その特徴はどんどん強くなるでしょう」

 母親が不安そうに抱き締めてくる。それを他人事のように受け止めながら、「ふーん」という顔をした。五歳児とは思えないツラだったと、後々この白衣の男こと主治医に言われることになるのだが、とにかく、この時の心境はただ一つだ。

「バスケ」

 そう、それだけ。

「バスケができるなら、なんでもいい」

 この言葉に、母親の身体から力が抜けた。呆れた視線に晒されながらも、主治医へ真っ直ぐに視線を向ける。

 すると、主治医は朗らかに笑った。体ごとこちらへ向き直って、力強く頷く。

「大丈夫。楓君はずっとバスケができるよ。これは病気じゃないからね。それに、君はね――」

 その時の言葉が、今も胸の中にある。

 

 

 流川楓の世界は単純明快だ。

 バスケ、食欲、そして睡眠。これさえ揃っていれば、困ることはほとんどない。たまに、足りていないというか、微塵も聞いていない勉強で周りから尻を叩かれることはあるが、それは必須ではないと本人は思っている。

「流川君っ」

 だから、例えば今、目の前で顔を赤くしているいわゆる「女子」が何を言おうが、流川には関係が無いのである。

「あの、私……この間の練習試合を観に行って、それで、流川君のこと」

「無理」

「……えっ、と」

 スン、と鼻を鳴らす。この女は、αだ。ジロリ、と視線を落とすと、女性にしては背の高い彼女は、たじろぐように一歩後退りつつ、それでも花の蜜に惹かれる蝶のように、顔を赤くして「でも」と繰り返している。

 この後にくる言葉は分かっている。

「私達、運命だと思うの」

 人生において何度聞いたか分からない台詞だ。女だけではない、男からも言われたことがある。そして、こいつらのこの言葉は全て「錯覚」であることも、流川はよく分かっていた。

「オレの運命はアンタじゃない」

 流川は言う。

「じゃ」

 固まっている女子生徒をそのままに、背を向けた。部活に遅れたくないのに、時間を取らせるな、などと思いつつ歩を進める。

 流川楓はΩである。いわゆるΩ性というのは、繁殖に秀でた性別とも言われ、男性でも子宮が備わっており、数ヶ月に一度「ヒート」と呼ばれる発情期を迎える体質を持つ。それに対して、Ωと対をなすような性別として存在するのがαであり、α性は男女の性別に関わらず、子宮を持つ性別の者を孕ませることができる。

 あの女子生徒は珍しいαの中でも珍しい「女性のα」だ。きっと、苦労も多いのだろうなと、乏しい想像力ながらに流川とて思うところが無いわけではない。彼女は、できることなら男性のΩと番いたいのだろうと。

 だが、流川は彼女の番にはなれない。

「ちっす」

 挨拶をして部室に入ると、いたのは二学年上の三井寿だけだった。二週間前にバスケ部に戻ってきたこの男は、流川の見立てでは同じΩだった。しかし、流川のΩと三井のΩは、同じようで同じではないというのも分かっていた。

「おっす。遅いな、お前はいつも早いもんだと思ってた」

「……野暮用」

 流川の面倒臭そうな言に、三井は「ははーん」という顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。この三井という男は、身勝手な行動でバスケ部を危機に晒しておきながら、泣いて「バスケがしたいです」と宣った、妙な先輩であるが、実は結構常識人な面もあると、ここ数日で知った。

 流川は、三井という先輩がそんなに嫌いではなくなってきていた。そもそも、嫌いというよりは、バスケやボールに対する態度が許せなかっただけというのもあったし、何より戻ってきた三井はバスケが上手かったのである。あんな泣き顔をかましてきただけあって、バスケに対する気持ちも真っ当に戻ったようだと、副キャプテンの木暮公延が何となくそういうことを言っていた、気がする。

「先輩」

 だから、恐らくそれは気まぐれでもあり、流川なりの距離の詰め方でもあった。先に着替え終わって左膝にサポーターを着けている三井に、声を掛けた。

「なんかあったら、言って」

「あ?」

 三井はポカン、とした顔をしていた。端から返事を求めてもいない流川は、コクン、と一人で頷くと着替えを再開した。最後に項の保護シートを貼り直すと、背後で息を呑むのを感じた。

 まあ、そういうことだ。

「お前さ、ヒートって来てるか?」

 連れ立って体育館に向かう途中、三井が小声で話し掛けてくる。

 流川は小首を傾げた。少しだけ低い位置にある三井の視線は、何やら真剣味を帯びていたので、流川なりに居住まいを正した。

「来てる、けど……」

 そこで、流川は言葉を切った。果たして、本当のことを言って納得されるかというのが分からなかったのだ。バース性について誰かと深く話すということをしてこなかった弊害が出ていた。

 不自然に言葉を途切れさせた流川を、三井が怪訝そうに見てきていたので、ほんの少しだけ腹に力を入れて続けた。

「オレのヒート、αを殺す可能性があるんス」

 三井の目が今度こそ「何を言ってるんだコイツ」という色に変わっていた。それはそうだろう。言っている流川本人とて、初めて医者に言われた時は同じことを思った。

 そこで、体育館の入り口へと着いたので、この話は一旦ここまでとなった。

 

 

 その話を再び三井とすることになったのは、IH後のことだ。

 全日本ジュニアの合宿も恙無く終え、まだ日本一の高校生にはなれていない流川は、湘北で全国制覇をするべく、オフェンスの鬼っぷりを増していた。

 しかし、単独でのオフェンス一辺倒ではチームを勝たせることはできないというのを、山王との試合で知ったので、近頃は積極的に三井や新キャプテンの宮城リョータへ口数の少ないコミュニケーションを図ったりしていた。

「お前、なんか言ってただろ前に。ヒートがαを殺すとか」

 数日前まで体調不良ということで一週間近く休んでいた三井が、そう切り出してきたのは自主練習後の後片付け中だった。そういえば、先週に一年生全員で買い物のため早めに帰った日、この人は体調不良になったのだったと思い出す。

 ああ、と思った。

 流川は勉強に興味が無いので成績は良くないが、別に馬鹿ではない。他人にあまり興味が無いだけで、鈍感なわけでもない。

「先輩、見つけたんスか」

 その一言で伝わるのが、Ωというものだ。その証拠に、言われた三井はほんのり頬を赤くしながら、一つ頷いていた。

 ほー。

 流川は感心した。数ヶ月前、いや、なんなら一週間前まで全くΩらしさのなかった三井が、Ωとしての自覚どころか、もう番になるかもしれないαを選んだということに、純粋に驚いていた。

 感心した勢いで三井の肩に手を置いたところで、背後からピリリ、とした威嚇を感じた。振り返ると、同じく居残り練習をしていた宮城が物凄い目でこちらを見ていた。

「なるほど」

 一人、納得して頷く。三井の肩をポンポン、と叩いてから「話すッス」と言った。ついでに、背後の宮城を顎で指す。

「キャプテンも連れてきたら」

「は?」

 三井が何か言葉を続けようとしていたが、無視してモップを片付けに向かった。

 

 

「楓君はね、Ωの王様なんだよ」

 主治医は、幼い流川にそう言った。

 自主練習も終わり、ところ変わってここはファミレスのボックス席。マイペースにメニュー表を見ている流川の斜め前には、不機嫌そうな宮城が微かに貧乏揺すりをして座っている。

「悪い、終わった。メニュー決めたか?」

 家に電話を入れると店前の公衆電話に行っていた三井が、流れるように宮城の隣に座った。途端に宮城から放たれていたαの威圧感が消え失せて、流川はまた感心した。

 ほー。

 それが顔には全く出ていないことも自覚しつつ、メニュー表をテーブルに置いた。三井が店員を呼んで、三人それぞれ注文をした。

「本題だけど」

 あらかた食べ終え、テーブルの上にドリンクバーのグラスしかなくなったところで、三井が言う。流川はメロンソーダをズルズルと飲みつつ、頷いた。

「ヒートがαを殺すって、どういう意味だ?」

「は!?」

 驚きの声をあげたのは宮城だ。ギョッとした顔で三井を見やって、それから流川に真意を問うような目を向けてくる。メロンソーダをひとしきりズルズルした流川は、顔を窓の外へ向けた。すっかり暮れた街並みに、街灯がぼんやりと灯りを落としている。

 これを、他人に話すのは初めてだった。必要がなかったし、話すほどの関係になった人間がいなかったというのもある。

「オレは」

 だが、この人達は多分、大丈夫だと思った。夏のあの試合で本当の意味でチームになって、流川なりに湘北の皆を好ましく思い始めていた。

「めっちゃ強いΩなんス」

 なんか失敗したな。

 言ったそばから目の前の二人の顔が残念そうなものに変わって、流川は内心で思った。無論、顔には出ない。仕様である。

 ふむ。と顎に手を当てる。

「いや、何だそりゃ」

 先に復帰したのは宮城だった。真っ当すぎる指摘に、流川本人も内心で頷いた。自分の語彙力の無さを舐めていたな、と思った。

「ていうか、お前Ωだったのか?」

 宮城が声を潜めて言う。流川は一つ瞬きをした。そうか、と思った。

 この宮城という先輩は、αだとは思うのだが、変わったフェロモンを持っていた。おそらくは医者に聞いたことがある、「支配欲の薄いα」だ。一般的なαがΩを支配するためのフェロモンを持っているのに対して、百人に一人くらいの割合で、Ωを守るためのフェロモンを持つαがいるのだという。そういうαは、本命以外のΩの匂いに気付けないらしい。

 ほー。

 本日三度目の感心をして、流川は三井を見やった。

「優良物件……」

「あ?」

 小首を傾げる三井に対して、流川は何度も首を上下させた。自覚の薄い残念なΩっぽかった三井が、良い相手を見つけられたことが純粋に喜ばしかった。

 それから、宮城に視線を戻す。

「先輩、αは普通Ωのヒートに出くわしたら、馬鹿になるッスよね」

「言い方だよオメー……」

 宮城が呆れたように言ってくるが、流川は泰然としたまま続ける。

「オレが目の前でヒートになると、普通のαは耐えられないッス。良くて気絶。悪くて死ぬ」

「マジなのかよ、その死ぬってやつ」

「そー」

 流川は再びメロンソーダをズルズルした。それから、少しだけ懐きつつある先輩二人に、自分について話すことにした。

 

 五歳の流川に「Ωの王様」という診断を下した主治医は、バスケ以外への興味関心が極端に薄い流川に対して、定期検診の度に少しずつ説明を重ねていった。

 Ωとαというのは、持って生まれた「フェロモン」物質の濃度によって識別される。男性ホルモンと女性ホルモンのように、要するにどちらかに大きく物質の濃度が傾いているから、Ωとαという特徴は現れているのである。だから、正確にはβと呼ばれる特徴の無い性別の人々にも、同じ物質が体内で生成されている。問題は濃度なのである。

 流川は、その濃度が生まれつき大きくΩに傾いていた。平均的なΩのおよそ十倍ほどの濃さを持つ流川のΩフェロモンは、傾き過ぎてΩの括りを外れていた。

「だから、めっちゃ強いΩ……か」

 三井が目を瞬かせながら言うのに対して、流川は頷いた。

「悪い流川。オレ、Ωのフェロモンって感じ取れたことがほとんど無くて、お前のも分からないんだけど、Ωフェロモンが強すぎると何が違うのかがよく分かんねえ」

 なんなら、お前はαなのかと思ってた。

 そう言って首の後ろを掻く宮城を、流川はジッと見つめる。

「先輩は、自分のΩしか判別できないのは仕方ないッス。それも体質」

 流川の言に、何やら三井が頬を赤くして俯いた。こんなにウブで大丈夫か、とお節介なことをらしくもなく思いつつ、流川は宮城に対して続ける。

「オレも、普段は自分でフェロモン制御してるッス。けど、ヒートになると流石に自分での制御はむずかしーから、薬で抑えてる。抑えてるから、オレは別に何も問題無いけど、αの方に色々ある、らしい」

 実際、流川はヒートによる不調とは無縁だった。フェロモンが振り切れているので、逆に安定しているのだ。ただし、流川から発散されるフェロモンは常人の十倍なので、αの方はそれを真っ向から浴びると、大変なことになるのだと、主治医に口を酸っぱくして言われていた。

「医者に言われたのは、人を殺す可能性が無いわけでもないから、気を付けろってこと」

「そこが想像つかねえんだよな……人を殺すほどのフェロモンって何?」

 宮城が腕を擦りながら言うのを、流川は無表情に見返した。それから、三井に視線を移す。

「先輩が聞きたかったのは、自分もαに悪影響あるかってことッスか?」

「え、あ、おう」

 ほとんど呆けていた三井が頷くので、流川は「ふーん」と言った。随分と隣のαに惚れ込んでいるのだと、若干の意外性を感じながら思う。

「普通のΩはまずαを殺すことはないッス。あと、先輩はそもそもΩのフェロモン薄そうだから、まあダイジョーブ」

「なんでそんなことまで分かるんだ?」

「Ωの王様らしいから」

 医者に言われたことを、そのまま言う。もう、二人は呆れも戸惑いもしなかった。真剣な顔で、流川について知ろうとしてくれている。

 なんだかむず痒くなって、メロンソーダをズルズルしようとしたが、既にグラスの中は空だった。諦めて、姿勢を気持ち正す。

「Ωのフェロモンが強いと、αのフェロモンだけじゃなくΩのフェロモンもβのフェロモンも嗅ぎ取れるッス」

 三井はコーヒー臭いし、宮城は甘ったるい匂いがする。

「マジかよ!?」

「βにもフェロモンってあるのか?」

 身を乗り出す二人に、流川はコクリ、と頷く。βは別にフェロモンを持っていないのではないのだ。ただ、Ωやαと違いフェロモンの濃度が傾いていないので、それによって何かしらの影響が出ることが無いだけである。

 五歳から主治医に繰り返し説明され続けてきたことを、流川なりの言葉にする。三井と宮城は、真面目な顔でそれを聞いて、やがて大きな溜息を吐き出していた。

「奥深え〜」

「こんなん保体でも習ってねえよ……どうなってんだ世の中は」

「別に、普通のΩとαは知る必要ないし」

 流川が言うと、三井が複雑そうな顔で見やってきていた。徐ろに伸ばしてきた手で、頭を不器用に撫でられる。

「大変だったな、流川」

 話してくれて、ありがとな。

 三井が、労るように言ってくるものだから、流川は驚いて目を丸くした。別に大変だと思ったことは無いのだが、同じΩからこういうことを言われるのは初めてで、純粋にビックリして固まっていた。

「タイヘン?」

 オウム返しのように言ってみたら、三井が頷いていた。そうか、大変なことだったのか。五歳からここまでで、初めて流川は自身のバース性について医者と両親以外の反応を見たのだが、大変だと思ったことはなかった。

 ただ、人を殺したらマズイなとは思っていたが。

「オレらが手を貸せることって何かあるのか?」

 宮城もキャプテンの顔で言ってくるので、珍しく流川はたじろいだ。顔には出ていないが、内心は結構動揺していた。

「別に」

 素っ気なく言いつつ、口を曲げる。そう、今のところは問題は無いだろう。

 今のところは。

 しかし、それを言うには、流川自身の咀嚼が足りていなかった。Ωの王様すぎる流川には、この問題は経験則が全く役に立たなかった。

「でも、何かあったら言うッス」

 それだけは告げた。

 恐らく、その日はそんなに遠くない。その時に、この変わり種フェロモンの先輩達を巻き込む予感も、流川にはあった。

 

 

「天才ふっかーーーつ‼」

 冬の選抜予選の直前、赤頭が戻ってきた。

「まだ復活してないっての!アンタはこっちよ桜木花道!」

 聞けば、桜木はまだコルセットを着けているらしいし、激しい運動も許可はされていないとのことだった。そもそもが、全治三ヶ月の怪我であり、リハビリも含めれば元通りの運動ができるようになるには半年はかかると言われていたはずなのだ。

 流川は、彩子に今日のメニューについての説明を聞いている桜木の背中をジッと見つめた。

 あの日、山王との試合のあの瞬間、自分が煽るようなことを言わなければ、この男はおとなしく引っ込んでいたのだろうか。そんなことを考えていた。

 答えは、「否」であったが。

「ぬ?キツネ!何を見てやがる‼」

 そんな流川に、桜木が噛み付いてきた時だった。

「聞いてんのか、キツネ……っおい、ルカワ⁉」

 不意に、身体が傾いだ。そのまま後方に倒れそうになり、他人事のように「頭打つかも」と思ったところで、コーヒーの香りに包まれた。

 ぼんやりと開いた瞳の先で、三井が何かを牽制するように睨めつけていた。そこにいるのは、蹲り獣のような呼吸を吐き出す桜木。

「桜木!そこから一歩も動くなよ‼」

 叫びながらも、三井は全身が震えていた。それはそうだろう、今の桜木はαの威嚇フェロモンを無差別に撒き散らしているのだから。流川は深く息を吐いた。自分を抱きかかえてくれている三井を、逆に守るように抱き締めてやりながら、「先輩」と声を掛けた。

「ダイジョーブ」

「流川、けど……」

「自分のαのとこ、行って」

 その背を、宮城の方へ押し出してやる。宮城は懸命に桜木を抑えようとフェロモンで応戦していたようだが、本来がそういうことに向いていない体質なのだ。そんなことより、自分のΩを守れと視線で言うと、宮城は無言で頷いて三井を自分の後ろに庇うようにして体育館の入り口まで下がっていった。

 それから、流川は崩れた膝を叱咤して立ち上がった。桜木は必死に自分の動きを抑えようとしている。偉い偉い。そんなことを思いながら、その傍に歩いていく。

 すっかり萎縮してしまったマネージャーや他の部員達に申し訳ないな、とほんの少しだけ思いながら、自分のフェロモンを調節しようと試みる。途端、桜木が低く呻き出した。

 ダメか。

 流川は腹を括った。

「どあほう」

 意識して、いつも通りの声音を出した。蹲る桜木の背中に触れて、少しばかり顔を近付ける。背後で三井が何か叫んでいるが、今は無視である。

「お前だと思ってた」

 言いながら背中を撫ぜると、桜木は一層辛そうに呻いた。

 辛いだろうな、と思った。今の桜木は、流川のヒートを引き出してしまったが故に、その圧倒的な濃さのフェロモンに襲われているようなものなのだから。しかし、我を忘れて飛びかかってこず気絶もしていない時点で、流川の予感は当たっていた。

「オレの運命」

 言った途端、桜木が身体を起こした。額に脂汗を滲ませながら、荒い呼吸もそのままに流川を睨めつけてくる。

「っくそ、あっちい……ウンメーだと?」

「そー」

 流川が頷くと、桜木は妙な顔をした。よく分からない、という顔だった。

「ウンメーってのは、何のことだよ?……ぐっ、お前なんかすげー匂いすんぞ⁉」

「あ?」

 ここに来て、流川の予感は浮足立ったものから嫌な予感へと変化した。今まで出会ったαは、どいつもこいつもヒートでもない流川のフェロモンを甘露か何かと勘違いをして、その強さを「運命」だと勘違いをする奴ばかりだった。

 桜木は違った。

 出会った時に、流川は本能的に桜木のαとしての素質を察していた。これまで会ったことのない、「自分と同じくらい強い」αだと、バスケを通して成長していく桜木に確信を得ていたのだ。

 そうか、これが自分のαかもしれないのか。

 そんな風に思っていたの、だが。

「ルカワ!おめーなんか変だ‼もう今日は帰れ‼」

 いつの間にやら起き上がった桜木は、流川から距離を取ると、これまたいつの間にか上の見学位置から降りてきていたらしい桜木軍団の方へと後退りしてしまった。しかも、水戸洋平の背中に張り付くという暴挙付きだ。

 流川は憤怒した。顔には全く出ていなかったが、桜木を背中に隠す形になった水戸が察して青褪めるくらいには、怒っていた。

「どあほう」

 低い声で呼ぶと、桜木がビクリ、と肩を揺らした。

 オレ以外の奴に擦り寄るな。触るな。触るならオレにしろ。

 初めて噴き出した自身のΩとしての感情に、流川は圧倒されながらも身を委ねた。

「ふざけてんならぶっ飛ばすぞ、ドシロート」

「なんだとコラ⁉」

「てめーはオレの……」

 いや、待てよおかしい。なんで桜木は平気な顔で自分と喧嘩をできている?

 そこまで考えたところで、全てを呑み込んだらしい水戸が、軍団に「花道担げ!」と指示を出した。流川は再び激怒しかけたが、神輿のように担がれた桜木と目が合った瞬間、首筋が燃えるように熱くなり、意識が途切れた。

 

 

「よお、具合はどうだ?」

 目が覚めると、保健室に寝かせられていた。窓の外から差し込む夕陽を浴びながら、水戸がベッドの横に座っていた。

 気に食わなくて、流川は意識して顔を顰めた。

「そういう顔、できるんだなお前」

 水戸がおかしそうに笑った。流川は表情を無に戻した。

「悪いな。花道は帰らせた」

 全く悪びれた様子もなく言われて、フン、と鼻を鳴らすと、水戸は苦笑いをしながら「まあ聞けよ」と続けた。

「お前が思ってるより、アイツはずっとガキなんだよ。図体はでかいけど」

 何の話だ。という顔をしている流川に、水戸は諭すように言ってくる。

「昔から駄目なんだアイツ。女の子に一目惚れは死ぬほどしてきたのに、すぐ傍でΩがヒート起こしても気合で我慢しちまう」

 なるほど、流石はオレのα。

 流川が満足気に頷くのを、水戸は面白そうに見て、「だから」と言った。

「今回も大丈夫かなと思ってたんだけど。流石にヤバかったな」

「……?」

「あれ、覚えてねえの?」

 流川の鈍い反応にキョトン、とした水戸が言うには、こういうことだった。

 あの後、ヒート状態の流川は軍団に担がれた桜木を引きずり下ろすと、無言のまま跨がろうとした、らしい。マウントを取られた桜木は、最初はいつもの喧嘩の要領で反撃しようと動きかけたのだが、不意にゴクリ、と喉を鳴らしたかと思うと、流川の身体を押しやって逆に引き倒した。

「物凄い勢いだったからオレらですら焦ったのに、お前を見たら嬉しそうに笑ってるんだもんよ」

 水戸に言われて、流川は生まれて初めて「ちょっと恥ずかしい」という気持ちになった。

 桜木に押し倒された流川は、酷く嬉しそうな顔で微笑み、その太い首に腕を巻き付けた。とんでもなく淫靡な光景ではあったのだが、いかんせん、そこは体育館のド真ん中である。いち早く我に返った水戸が指示を出し、軍団総出で桜木を羽交い締めにしたものの、桜木は化け物のような力で抵抗したという。

 流川は流川で、射殺すような目で軍団を睨み付けてくるので、陽気な集団である水戸達も「あっ、これマジでヤベエやつだ」と、ようやく本気になった。この時、保健室に走っていた彩子と安田靖春が保健医と共にΩ用の緊急抑制剤とα用の鎮静剤を持ってきて、なんとか二人に投与することができた。

 その頃には桜木は必死に流川の首筋に顔を寄せようとしていたし、流川は瞳を潤ませながらしきりに「さくらぎ」と繰り返していた。

「えっとー……まあ、落ち込むなよな。最悪の事態は免れたわけだし」

 すっかり顔を覆って俯いた流川に、水戸が慰めるような声を掛けてくるが、それどころではなかった。というか、流川は落ち込んでいるわけではなかった。

「キセージジツ、作っとけよオレ……」

 ボソリ、と呟いた。

 もう、そこまでいけたのなら項を噛ませれば良かったのだ。口を尖らせながら、不貞寝するように掛け布団の中に潜り込んだ。

「流川よお」

 布団越しに声を掛けられたが、流川は返事をしなかった。水戸は気にせず続けた。

「花道が欲しいか?」

 その声は、腹立たしい程に大人びていた。

「アイツが欲しいなら、色仕掛はやめとけ」

「なんで」

「急に反応速度を上げるな」

 水戸の言葉に、流川は反転して布団から抜け出した。いつも通り抑制剤が効いているのか、ヒートの影響など全く感じられないくらい身体は軽かった。

 流川が「早く言え」と無言の圧を送り続けていると、水戸は降参したように「はあ……」と溜息を吐き出した。

「言っただろ、アイツはお前が思ってるよりガキなんだよ。しかも、頭の中がサル並なガキじゃなく、ママに甘えるのが足りなかったガキ」

 水戸の言葉を脳内で十回ほど反芻したが、全く理解できなかった。流川のヒートに耐えられるくらいαとして出来上がっているのに、中身はママに甘えたいガキとはこれいかに。

「アイツは、オレのα」

「うん、オレもそう思うぜ」

 流川の途方に暮れた声に、水戸は穏やかに返してきた。

「Ωにああいう反応する花道なんて初めてみたよ。けどな、流川。だからこそ、大事にしろよ花道のことも、お前自身のことも」

 水戸の言い方は分かりやすいようで、分かりにくかった。βだからこその考え方なのかもしれないな、と思った。

「オレらは花道の味方なんだ。だから、花道を大事にしてくれる奴になら、手を貸す」

「わかった」

 流川は素直に頷いた。

 

「流川!」

 翌日、いつも通りの顔で部活に出ると、三井が抱き着いてきた。肩越しに見える宮城の不機嫌オーラが面倒だからやめてほしい、と思いつつ流川は甘んじてそれを受け入れた。

「何もできなくて、悪い」

 三井はそんなことを言った。流川はゆっくりと瞬きをした。

 なんとなく感じてはいたが、この三井という男は、どうにも同じΩに対する仲間意識が強いらしい。それも、流川にはこれまで触れる機会の無かったものだった。

「先輩」

 流川は慣れない感覚に戸惑いつつ、三井の背中を柔く叩いた。

「守ろうとしてくれて、あざす」

 

 

 水戸曰く。

 鎮静剤を打たれた桜木は、そのまま安西の自宅へと移されたのだという。ちなみに白目を剝いて昏倒したらしい。ちょっと見たかったなと思った。

「まあ、教育だよ教育」

 軽い口調で言うと、水戸は保健室を出て行った。

 そして、今日、桜木は部活には顔を出さなかった。流川は不機嫌になった。

「あのねえ、本来なら休むべきはアンタなんだからね流川」

 ハリセン片手に彩子に言われて、「それはそう」と思いつつも、気持ちは落ち着かなかった。

「桜木花道は先生と特訓することになったから、こっちは選抜に集中するの。良い?」

「ウス」

 バスケを引き合いに出されれば、流川は素直なものである。

 彩子が仕入れてきた情報によると、桜木はどうにもαとしての自覚に乏しいらしい。フェロモン値も高いにも関わらず気合でΩの誘惑を打ち払うという、謎の荒業を繰り返してきたせいで余計にバース性への理解度が足りていないのだという。

 そんなことあるのか。それが流川の率直な感想ではあったが、実例が目の前にあるわけなので、何も言えはしなかった。

 そういうわけで、冬の選抜予選の間は特に問題無く過ごすことができ、またもや陵南高校に辛勝して本戦への出場権を得た。流川の獅子奮迅のプレーに、IHを経てPGとして自信を得た宮城の働きも大きな勝因に含まれてはいたが、何よりも三井の執念が凄まじかった。

 三井の、チームへの献身と蓄積されたバスケセンスに、他のメンバーも引っ張られたのだと、流川は思っていた。結構悔しかった。

「この人のプレーはさ、周りにも火を点けちゃうんだよな」

 陵南との死闘の後、立てないくらいに消耗した三井を支えながら言う宮城は、驚くほどに優しげな顔をしていた。

 ほー。

 流川はまたもや感心した。自分のαを見つけただけでなく、心を通じ合わせたΩは、強くなるのかと。

 果たして、流川自身はどうかというと。

 

「流川」

 陵南との試合の後、仙道彰に話し掛けられた。今日の流川は自分でも出来が良かったと思っていたので、声を掛けられるような気はしていた。

 仙道は、恐らくαだ。しかも、結構強いα。ただ、本人は意図的にフェロモンを抑えているっぽい。

「負けたよ」

「ウス」

「あのさ、バスケ全然関係無い話なんだけど」

 流川は元々ほぼ無の表情をさらに無にした。仙道が「えー」と困った顔をしているが、バスケに関係無い話を仙道とする気は全く無かった。

「ん〜、桜木の話なんだけど」

「なに」

「反応速度上がったな!?」

 仙道が笑って流川の頭を柔く叩いた。瞬間、背後から膨れ上がる威圧感。

 流川は満足気に鼻を鳴らした。

「あー、まあ、大体察してはいるんだけど。アレはどういう状態なのかなーって」

 アレ、と仙道が指すのは、湘北ベンチに座り込む鬼の形相をした赤頭である。先程から、仙道と話す流川に「さっさと戻ってこい」と全力で威嚇フェロモンを発する桜木に、流川は視線を向ける。

 バチリ、とかち合った視線に、桜木がたじろいだ。流川は唇を少し持ち上げて笑った。

「あーあ、桜木がαの自覚持っちゃったら、余計に面倒じゃない」

「来年もうちが勝つ」

 そう言ってやると、仙道は好戦的な顔で「言うねえ」と返してきた。もう用は無いだろうと流川が湘北メンツの方へ向かおうとすると、背中に仙道が声を投げてくる。

「お前、アイツのことどこまで連れてくつもりだ?」

 それは様々な意図の込められた問いだった。流川は少しだけ振り返って、わざとフェロモンを強めに出した。呼応するように自分のフェロモンを包み込む自分のαの気配を感じながら、笑う。

「アイツが跳べる限り、どこまでも」

 今度こそ背中を向けたところで、仙道が大笑いしていたが、もう振り返ることはない。

 目の前には、歯痒そうな顔で待ち構える赤い頭のα。坊主から伸びてきた髪に手を伸ばして、軽く引っ張った。

「早く戻ってこい」

 言葉はそれだけで良い。

 

 

 初めてヒートで不調を覚えたのは、アメリカに来てからだった。それも、自分を追い掛けてきた桜木と、また一緒にバスケをするようになった頃からだ。

 二年制大学への留学制度を利用した流川と、一年遅れで同様にアメリカへやって来た桜木は、チームでもコンビとして扱われることが増えてきていた。

「事前に聞いてはいたが、いずれは番になるつもりなんだって?」

 桜木が来てから少しした頃、二人だけで監督に呼ばれて言われた。流川はすぐに頷いたが、桜木は難しい顔で黙っていた。

 謎のコミュニケーションスキルを持つ桜木は、あっという間に英語を話すチームメイト達に馴染んでいた。なんなら、先に入っているのに口下手な流川より友人も多そうである。

 そんな快活な男が黙り込んだので、監督は顔を曇らせた。何か問題があるなら今言え、と促されて桜木は曲げていた口を開いた。

「いずれとか、待てねえ」

 ぶわり、と流川のフェロモンが濃度を増した。監督が慌てて「カエデ!落ち着け!」と宥めてくるが、それどころではない。横に立つ男を一心に見つめていると、思いの外静かな瞳が返ってきた。

「散々待たせたのは、オレだしな」

 流川はゆっくりと瞼を閉じて、またゆっくりと開いた。まるで、世界が切り替わるような心持ちだった。

 瞬間、項から炎が上がったような感覚に襲われる。

「ルカワ!?」

 桜木が慌てて身体を支えてくるのを、他人の視点のように見ていた。身体に力が入らない。顔も首筋も心臓も手足も、何もかも熱くて、助けを求めるように桜木の名を呼んだ。

 そこからは、何も分からなくなった。ただ、自分をキツく抱きとめる腕に酷く安心したことだけは、意識を失う瞬間まで認識できていた。

 

「すぐにでも番になった方がいい」

 翌日、抑制剤が効いて突発的なヒートも落ち着いた流川に、監督がそう言ってきた。流川は頷いた。

 精神的な要因によるヒートは、別に珍しいものではないのだ。今回の流川のようにポジティブな感情から起こることもあるし、極度の緊張や恐怖からヒートになってしまうΩもいる。

 特に、流川のフェロモンは危険なので、監督の言うことはもっともであった。

「よし」

 そういうことで、流川はその日のうちに桜木を連れてΩとα用のホテルへ向かった。どこに行くのか教えず向かったので、到着して部屋に入った段になって、ようやく桜木は「は!?」と騒ぎ出した。こういうことが、日本にいた頃もあったなと思い出す。

 その首根っこを掴んでベッドまで引きずり、すかさずマウントを取った。

「おま、急に何を」

「急じゃねー」

 お前が言ったんじゃねえか、待たせたって。

 流川は視線で詰る。前日に投与された抑制剤の後は、もう抑制剤を服用していない。夕方近い今の時間頃には完全に切れるだろう。

「番う」

「でも、お前体調が……」

 しどろもどろな桜木を、流川は鼻で笑った。だいぶお勉強を施されたと思っていたが、まだまだシロートに毛が生えたようなものだな、と思った。バスケも、αとしても。

 ジリジリと熱を上げる項を意識しながら、桜木の光の強い瞳を見やった。

「体調不良じゃねえ、発情してんだ」

 挑発するように言って、太い首に鼻先を押し付けた。桜木の匂いで鼻腔がいっぱいになって、恍惚とする。以前、チームメイトがアジアのどこかに旅行に行ったとかでもらった香の匂いが、この匂いに一番似ている。サンダルウッドとかなんとか言っていた。

 桜木と身体を重ねるのは初めてではないが、実に一年以上ぶりだった。流川が渡米する直前、ヒートではない状態でしたセックスは、正直官能的とかそういう表現とは程遠かったのを思い出す。

 今回はどうだろうか。

「?」

 首筋から顔を上げて見下ろすと、桜木はすっかり真っ赤に茹だっていた。

「タコみてー」

「なんだとコラ!」

 煽ればすぐに応えがある。それが嬉しくて、流川は笑った。珍しく、意識せずに笑えた。

「……っルカワ」

 途端に更に赤くなった桜木が、流川の肩と腰を支えて体勢を入れ替えてくる。素直に受け入れて、今度はその赤い頭を見上げると、急激に呼吸が乱れた。

 まるで酸素を求めるように、桜木の名前を呼ぶ。

「お、まえ……本当にオレのこと好きな」

「そー」

 可愛くて華奢な女に目を奪われてばかりいた桜木を、流川は自分の使える全ての手札を使って手に入れた。最初は自分と番うべきαとしか見てなかった気がするが、それもいつの間にか桜木という存在そのものへの慕情へと変わっていた。

 そろそろ、マトモでいられる時間が短そうだと思った。外部へのフェロモンを完全に遮断できるこのホテルの部屋でなければ、馬鹿みたいにαが引き寄せられていてもおかしくないだろう。

「あっちい……お前、相変わらずすげー匂い」

 言い草が失礼だが、桜木が流川のフェロモンを好ましく思っているのは分かっている。前に聞いたら、「ハチミツみてえな匂い」と言っていた。腹が減りそうな匂いで何よりである。

「桜木」

 名前を呼んだら、目の端から何かが零れた。それが何か理解する前に、唇を塞がれる。

 自分のものより分厚い舌に上顎も下顎も、歯列も何もかも舐られて、口の端からも色々と零れたが、気にする余裕は無かった。ようやく触れた舌同士が絡み合って、もうそれだけでセックスしているような気分になった。

 項が熱い。

「ルカワ」

 キスの合間、桜木が言う。途轍もなく真剣な顔をしていて、逆に面白かった。

「後悔させたくねえ」

 流川は目を眇めた。この男は、粗雑で身勝手かと思えば、いつだって本質は真面目で真っ直ぐだ。一途とも言える。

 そう、その一途さを、流川は自分だけのものにしたのだ。

「ふ……」

 全身が歓喜に震える、というのを身をもって実感しながら、流川は笑った。目の前の滑らかな、しかし男の肌を持つ頬を、両手で包み込む。

 後悔をしても遅いのは、お前の方だ。言葉にはせず、噛み付くようにキスをした。

 

 以前にした、平常時のセックスと違い、今の流川はαを受け入れるように身体が変化している。だから、前より性急に事を進めて構わないと何度も言ったが、桜木は決して聞き入れなかった。唇へのキスに始まり、首筋にも胸にも腹にも、全身くまなく柔らかなそれで触れられて、流川の全身から力が抜ける。

「んっ……あ、あ♡」

「なんか、前に見た時と違う気がするんだが、お前のここ」

「だか、ら♡ヒート、だって……ひっ♡」

 ちゅぷり、と乳首を舐られて、堪らず仰け反った。粘膜に包まれたそこは既に性感帯に成り果てていて、身体が跳ねるのを、やんわりと桜木にベッドへ押し付けられる。逃がせなくなった快感は、流川の口から馬鹿みたいな喘ぎになって漏れ出てしまう。

「あっ、あっ♡さ、くらぎ……っ♡さく、ぅあっ♡」

「すげー声。つーかマジでアチい」

 バサリ、とシャツを脱ぎ捨てた桜木の上半身を見やって、流川は深い溜息を吐いた。桜木とは一年ぶりの再会だったが、この一年で随分と鍛え上げてきたらしい。高校生だったあの頃より、何もかも出来上がっていて、吐き出す息が熱くなっていく。

 そんな流川の様子に気付いた桜木が、「お前、ホント」などと口元を押さえながら言う。自分がどんな顔をしているのか自覚がある流川は、開き直って自ら桜木のボトムスに手を伸ばした。

「もう、ムリ」

「おい、ルカワ」

「オレは!」

 少し大きい声が出た。自分でも驚きながら、しかし、抑えられない何かが全身から溢れそうで、必死になって得意ではない言葉を桜木に向ける。

「ずっと待ってた……っ、お前を!お前だから!」

「分かった」

 太い腕に抱き竦められた。桜木のフェロモンに包まれて、安堵感と興奮と、様々な感動が流川に襲いかかる。自分のフェロモンも制御などできていないけれど、驚くことに流川の強すぎるそれを、桜木のフェロモンは宥めるように包み込んできていた。

 シロートだったはずの自分のαに、流川は今確かに守られていた。

「さくらぎ」

「くく、何を呆けた顔をしている。成長した天才に惚れ直したか?」

「ん」

 頷いた。それはもう、素直という言葉の例文になりそうなくらいの素直さで、流川は頷いた。桜木の顎に噛みついて、「好き」と繰り返す。桜木は「なんだって!?」と自分で煽っておきながら驚いているが、ヒート時に自分のαを前にすると、こんな風になってしまうのだということを、流川本人も今知ったのでどうしようもない。

 膝で桜木の股間に触れる。ちゃんと大きくなっていて、ホッとする。

「お前……本当に覚悟しろよ」

 桜木が唸りながら流川の脚から下着を抜き取った。一糸まとわぬ姿にされても、羞恥より興奮が勝っていて、流川は荒い息を吐きながら桜木を呼んでしまう。大きな手が腰を撫でてから、泥濘に触れた。

「マジで濡れてるのな」

「そ、りゃ……っあ、そーだろっ、あ、あっ♡」

 指が一本差し込まれ、濡れそぼったそこを擦り上げてくる。ヒートで敏感になっている流川には、それだけでも暴力的な快感となって、また甘い声が漏れる。桜木の呼吸も、どんどん「フーフー」と獣のようになってきていて、それにまた煽られるというスパイラルに陥っていた。

 桜木の太い指を三本飲み込めるくらいになった頃、もう一方の手で前髪を掻き上げられた。常は意思の強い光を讃える桜木の瞳も、今は熱に浮かされたように潤んでいた。

「すぐ噛んだ方が良いか?」

「ん」

 言いながら体勢を変える。背後から抱き締められると、流石にふるり、と震えが走った。保護シートを剥がした項を他人に晒すのは初めてのことだった。

「いれるぞ」

 桜木が掠れた声で言うのに頷いた途端、驚くほどに熱いものが流川の後孔に触れて、そのまま押し広げるように挿入ってくる。ゴリゴリ、とナカを擦り上げられて、流川は甘く啼いた。目から勝手に水分が溢れて、項が燃えるように熱くなる。

「うぁあ、あ♡さく、ぁ……んんー!♡」

「あ、コラ!シーツ噛むな!大丈夫だから声出せ!」

「や、あ♡ぅあ、あっ♡や、あ、イクッ♡イッ~~~♡♡♡」

 大きく背中を逸らせながら、流川は絶頂した。ナカの桜木を思いっきり締め付けたと思うのだが、必死に堪えたのか呻きながら桜木が流川の項に鼻先を押し付ける。先程から全く加減のできていないフェロモンを出しているにも関わらず、それでも我を忘れていない辺り、やはり桜木は普通のαではないのだろう。

 流川の絶頂の波が緩やかになったところで、桜木が「動くぞ」と耳元で言った。コクリ、と流川は夢見心地のようになりながら頷いた。

 ぱちゅり、と腰が打ち付けられる度に、流川の喉から喘ぎが零れる。意味になっていない音を漏らす合間に、何度も桜木を呼んでは、ナカへの刺激だけで絶頂した。桜木の熱が膨れ上がるのを感じて、流川は首を晒すようにしながら、桜木の手を自分の項へ誘導した。

「ルカワ、っ噛む、からなっ」

「んっ♡ん、はやく♡」

 言うや、項に焼けるような感覚が走った。噛まれているはずなのに、流川は凄まじい多幸感と快楽に襲われて、言葉も出せないまま達した。そして、肚の中に熱いものが注がれて、噛み付かれたままの項から、まるで身体が作り変わっていくかのような感覚になる。

「あ、あ?♡」

「……っはあ、ルカワ。おい、大丈夫か?」

「ひっ……!♡」

 耳元で桜木の声がした途端、流川はまた絶頂した。驚いて腰を引こうとしたらしい桜木が動けなくなるほどに、ナカの楔を締め付けてしまう。

「な、に?♡あ、さくらぎっ♡へん、だ……っあ、ああああ!♡♡」

「ぐぅ⁉おま、何で急に!おいキツネ!落ち着け!」

「だめ♡むり♡さくらぎの、声♡イく♡イく、イくっ~~~‼♡♡♡」

 ビクビク、と断続的に達する流川に刺激されて、ナカの桜木がまた大きくなっていく。まずい、と思いながらもどうにもできず、二人揃って喘ぎながら、そこからはもう、記憶が曖昧になるくらいに抱き合っていたらしい。

 

「ん゛ん……」

 とんでもない声で目が覚めた。それが自分の声だと気付いたところで、指一本動けないことにも気付いて、流石の流川も慄いた。視線を巡らせると、立派な胸板が目の前にあって、なんとか首だけ動かしてそこに吸い付いた。

「おい」

 頭上から声がしたが、首を持ち上げる元気は無かったので、今度は乳首に噛みついてみたところ、とうとう脇の下に手を入れて持ち上げられた。裸のままの桜木の膝の上に乗せられて、背中を支えるようにされつつ、ぐったりとその肩に額を預ける。

「つがった」

 流川が呟くように言うと、「おー」と疲れ果てた声が返ってきた。流川もほとんど同じくらいか、それ以上に精根尽き果てているので、何も言えなかった。

 これが番になるということなのだろうか。いや、なんとなく、一般的なそれとは違うような気がする。他の人のセックスとか知らんけど。

 流川は大きな溜息を吐いた。桜木もつられるように、同じく溜息を零していた。そう、断片的な記憶を辿るに、今はセックスを始めてから三日程経った早朝。前もって医者と相談をしてピルを服用はしていたが、なんとも不安になるくらい中に出された気がする。念のためアフターピルが必要だろうか、などと考えつつ、桜木の肌に頬を擦りつけた。

「なんか、ヘンな感じだ」

 桜木がぼんやりと言う。流川はようやく、のろのろと首を持ち上げた。至近距離で見つめ合うと、やっぱり触れたくなるのだから不思議だ。などと思いながら桜木の鼻を甘噛みして、言葉の続きを促す。

「前は、お前がいるとなんつーか、ヒリヒリしてたんだ。けど、今はなんかこう……」

「しっくりくる」

「それだ」

 番になった瞬間のことは、もう朧気にしか思い出せないが、感覚だけはしっかりと身体が覚えていた。それまで、とんでもない濃度でただ周りに撒き散らされていただけの流川のフェロモンは、自分の番となった桜木だけを求めるように変化した。それを浴びた桜木もまた、流川のフェロモンを自分のフェロモンで囲うようにして、そのうちにフェロモン同士が混ざりあって、二人は一緒に絶頂した。

 番ってすげー。

 一人で謎の感動を覚えながら、桜木を見下ろした。疲れ果ててはいるが、どこかやりきった感のある顔が、流川の瞳を捉えるや優しげに笑みの形になる。

 ほー。

 流川は感心した。

 ドシロートだったαが、流川だけのαに成長していた。そして、流川もまたΩの王様から、桜木だけのΩになったのだと気付いた。

「はなみち」

 名前を呼んでみる。色んな人が呼ぶこの男の名前を、実はずっと呼んでみたかった。桜木は少しばかりキョトン、としてから、じわじわと赤くなっていった。髪の色と同じくらい赤いかも、などと考えていたら、流川のものより分厚い唇に同じそれを塞がれた。

 ほー。

 触れるだけの口吻があんまりにも気持ちよくて幸せで、流川はまた感心した。

​END

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